いつものことなのだが
文章を書いていって
最後の最後で雑になる。
まとめ、の部分。
結局どうやねん、の部分。
そこが曖昧になる。
ここに向かっているはずなのに、だ。
子どもは、そこをスポーンと出す。
触りたい!
もっとやりたい!
たべたい!
たのしい!!
そのままだ。
それを伝えたい対象も
明確だ。
だれが
何を
大人になっていくにつれ
いろんな分別がつき
いろんな勉強をして
言葉を覚える。
考え方が身につく。
この場合は
知らずのうちの「クセ」
ある種の「不快」
それに対して感情が動く
それがまた「不快」である。
頭のいい人をみていて思うのは
この「不快」そのものが
その人自身なのに
そこを避けるための
いろんな言葉を
いろんな考え方をもっている。
避ける、という実際は
自分は正しい理由を探すことだ。
深いから湧いた感情には向かわずに
それをむしろ抑えるために
いろんな頭を働かす
考えすぎの原点は
ここにあるのではないか
そう思った。
であれば、
「不快」そのものが
自分が顕れるきっかけだ。
そこを避けたいのも
変えたいのも
当然だ。
重要なのは
置き換えないことだ。
別のなにかに置き換えず
「不快」そのものに
まっすぐ向かうことだ。
そして
自分の「快」を
明確にして
自分でやればいい
そうだよね。
私の「不安」は
たいてい
わかってもらえない
認めてもらえない
相手にしてもらえない
そんなところが
始まりだ。
これは
「不快」
とは別である。
不安が自分なのではない。
不快に感じていることが
重要なのだ。
ここを見極めることが
重要なのではなかろうか。
何が不快であったのか。
振り向いてもらえない自分が
不快であるなら
振り向いてもらえる自分に
なればよいだけだ。
そういったことだ。
そこをまっすぐ
行動していけばよい。
だって前述の生き方に
本当の喜びがあるはずがないもの。
喜びたいわけじゃないけど
命をまっすぐ生きたい。
大自然は
そうしてるもの。
あ、また話がふわっとした。
でも今日はおしまい。