職場にて、
不安から動きすぎないことを
代表から会議の中で指摘された。
自覚がなかったので
もう一度話を伺った。
その時話題にしていたことには
不安を感じていなかったからだ。
本当か?
「不安」というものは感情なのか。
それとも用心なのか。
不安だから、対策を練るのか。
先を読むのか。
先取り不安という言葉もある。
不安の根っこは何なのか。
実は随分昔にも指摘されたことがある。
今は亡くなってしまったが
一番つらい時期にお世話になった人だ。
「なにもないところに、自分で不安になって
勝手に問題を作って潰れていく」
出会ってそんなに経っていない。
その方にはこれが見えた、ということだ。
そして、今も響き続けている言葉だ。
実は、響かせ続けているのも
不安からかもしれない。
何が言いたいのかというと
日野先生に出会ってからの
一番大きな変化、気付きは
「自分が」生きるということだと思っている。
不安の根っこは
生きるための「理由」を
探しているからではないか。
まるで許しをえるかのように
自分で自分に言い訳するかのように
前よりも成長している。
他よりもうまく出来ている。
知っている。
上に立てている。
認められている。
そんな幼い気持ちが
この根っこにあるのではないか。
冒頭の代表から指摘されたこと。
それは会議の場で、私がわざわざ発言した
そのことだ。
内容ではなかった。
内容については
「あなたががやりたければ是非やりなさい」、ということだった。
では何が問題だったのか。
いつもどおり、問題設定そのものが
間違っていたのだ。
周囲に、不満があったのだ。
なぜ自分ばかりやるのか。
なぜわかってくれないのか。
なぜ、一緒に取り組もうとしないのか。
私は正しいことを言っているのに。
そんな気持ちがあったのだ。
それをわからせたいがために
会議という場で
代表の前で
発言したのだ。
私が正しいのだから
当然相手は間違っている構図だ。
そして、このことに無自覚である。
これが問題だ。
さらに
結局、言っていることには
この場合取り組まないことが多い。
これが一番問題だ。
結局である。
周りのせいにして
やらない口実を
巧妙に作っているだけなのだ。
そうして何十年もやってきた。
もっと言えば
この構図は
私が両親に対して起こす反応
そのものであり
そして
父が怒る姿
母が我慢し追従する姿
そのものではないか。
つまり
自分ではない。
この反応は
自分ではない。
癖だと言えないか。
であれば
自分は?
こうしてみたい、
それだろう。
それを職場の中で
人の中でやるのだろう。
それに
周りに
まっすぐ向かい合えたときもある。
そこが
まず仕事の態度ではあるまいか。