合唱の鍋島先生のラジオを聴いていたら、「後ろ側の自分」「意識を開く」という、レッスンではよく耳にする言葉を改めて聴いた。新しい仕事についてから、この二年ほぼ月イチで受けてきたレッスンが受けられなくなっている。
後ろ側、というのは未来であると先生は言う。
では前側は?というと、過去であるという。過去、というのはその人のクセというか、世の中に見せている部分という感じだろうか。先生は、「音」を通じて、その人の中心が開いていく、そこが開いた瞬間、通じた瞬間に美しさを見るのだそうだ。
「今!」
と、突然レッスン中に言われることがある。しかし、自分には何が起こったのか全くわからない。
キョトンとして、「??」という感じだ。考えてみれば、確かにそういった瞬間にふっと現れるのかもしれない。
言葉にすると難しいが、こうしよう、という意図があればそれは、前側の響きになっているのだろうし、「聴く」ということ以外のことをしているのだろうから。意図、そのものになっているときに、ふっと自分の奥に、後ろ側とつながっているのだろうか。
昨日は、不思議な一日だった。
周囲とぶつかってしまいがちな一昨日があった。
子どもたちも落ち着かず、職員ともぶつかりやすかった。
「先生も、怒っていたよね」
と、女の子からツッコミが入る。そんな日もあるさ、と答えたが、苦し紛れの一言であった。
苦しさ、が一体どこから来ているのかわからない。だから、苦しい。
何をしたらよいのか、何が仕事なのかが、自分でわかっていないこと、決めていないことがあるからだ。
昨日は、どういった自分の変化があったのかがわからないが、全く流れが変わった。朝少しゆったりとした時間をもったが、、。
出勤してから、昨日の対応について経験のあるスタッフと話した。ぶつかった職員にも態度について謝罪した。
一生懸命聴いた。職員も話をいつも以上に熱心にしてくれた。
その中で、仕事としてできていないことが少し明確になった。
つらくても、嫌でも、やらなければいけないこと、どんな文句をいわれても子どもに向かうことをやめないこと。
自らの感情でぶつかるクセ、幼さ、それを周囲に話して、助けを求めて、ユニットの仕事に当たること。
これらを今の課題として認識することができた。
場を読む、ということではないか。
自分にとって、何が今大切なのか、都度都度変化する。日野先生からの言葉にもあったものだ。
子どもと二人だけで話して、腹の中に収めると約束した暴れた事件のことも、職員に相談したのをきっかけにみんなで共有できた。
最初言っていたことは正当性というかもっともらしい事を言ったけれど、本当はどうだったのだろうか。実は、隠したかった、めんどくさかったという気持ちがあったのではないか。いいわけだな。
子どものこと、仕事のこと、職場全体のことを考えれば、私のとった行動、言動は、間違っていたのかもしれないと思った。
何より、周囲に相談できたことがよかった。自分では判断ついていないことだからだ。
結果、職員に報告からアドバイス、それぞれの体験を聴くことができたのだから。
その中で、苦手とおもっていた職員がこういってくれたのだ。
「いいんですよ、今はそうやって間違ってもやっていくこと。そして、周囲に相談して、頼って、弱いところをさらけだしていくんです。私たちは敵ですか?そういう空気があるけれど、違いますよね。こうやって周りの大人と組んでいくことも、子どもたちは見ています。」
何かが、大きく揺れた。
自分が、見たいようにしかみていない。仕事のことも、この人のことも。
これが相手の裏側、自分にとって見たくない部分に向かい合っていけない私の弱さだ。
仕事ができると思われたい、人より上に立ちたい、なめられたくない、こういったものを選んでいたい自分なのだ。
つまらない自分だ。昨日の自分は、少しはましではないか。
人と交われる、人が近い、自分が小さい気がした。
現実と、目の前と向き合っている気がした。
自分が、こうしたい、こうだ、はどうしてもぶつかる。そして、可能性はその部分でしか開かない。しかし、それは可能性?
可能性は、裏側の自分が握っている。抽象的だが、「よし、やはりこっちだろう」と判断した昨日の自分は?
それは、それまでの日々の中でのもがきが導いた自分とも言える。
分かれ道だ。
頭の中で終わらせず、もっと集中して道をすすむことが、今の僕にとっての成長のポイントだ。
もう一つ印象的な出来事があった。
担当職員と子どもと私の3名で、出来事について話をすることになった、昨日の夜。
何をどう伝えるか、私は不明確であった。事件を共有したことを伝えることははっきりしていた。
本人と今話しをしたほうが良いと、周囲と相談した結果だ。
それは、良かったと思う。
そこで私の課題、大切なことがみつかったのだ。明確になった。それを書いておきたい。
本人を前にして、出てくる言葉が、借り物ばかりだったのだ。
それが今の実力そのもの、ここがいちばん大切だ。ぶれている、ということの実際はこれだ。
シリアスな雰囲気になってしまって、施設として禁止のことをちゃんと伝える場面なのに、ユーモアを入れようとしたのも、ぶれているということではないか?あの場面なら、必要なことだけを淡々と伝えるべきであった。本人が混乱する。
本当の気持ち、を伝えなければならない場面で逃げてしまう、という自分だ。
だから、言葉がいつも不明瞭なのだ。意思が明確になっていない。ごまかしているのだろう。そのことに、気がついていない。
自分の人生を歩む上で致命的だ!!
言葉を発する、ということが、実は自分にとっては周囲と戦う、正しさや正義として振りかざす手段になっていないか。
弱さを隠すための、びびっていること、ごまかしたいことを覆い隠す、そういった使い方をしていないか。
何より、何をどんな意図を持ってやっているのかの自覚がないことが致命的である。単なるクセだろう、それでは。
ここは、取り組めるポイントだ。衝動と、言葉、行為のつながりの修正である。
それこそ、肚の力が必要だ。それこそ、腹に収める力が必要だ!
大切なことは観念ではない。
起こったこと、ごまかしてしまったこと、葛藤、あやまらんといけないという気持ち、私にとって大切なことはここだった。
基本は、四の五のいわずやる!それは間違いない。
その中で、がむしゃらの中で、この2週間いっぱいいっぱいになった。
そして、それで良いと苦手な人から言われるということが起こった。本当に、見たいようにしか見ていない。
自身の本当の響きが、動く中で後ろ側からあぶりだされてくるまでは、言葉にしないようにしよう。
相手からも、裏側の声が聞こえてくるまで、しっかり聴いてみよう。
そして、業務をきちんと考えよう。
ルールを理解する、ということだけではなく、自分で考えるということが大切だ。考えられる力だ。
ルール化の裏側には責任を負いたくないという気持ちが見え隠れする。
考える、ということを可能にするのはなんだろう。
日課の整理、子どもの観察、動線の作り方、周囲との連携の方法。
これらの背景に、施設の目的があり、施設長、リーダーたちの想いや考えがある。施設は法律で明確に規定もされている。
これだけのことが、業務の枠組みにあり、影響しあっている。しかし、これらが明確になれば、では自分がどうやって動けばよいのか考えることができる。はじめて、考えることができる。だから、四の五の言わずやれ!なのだ。施設が運営されることだけでも、山程の決まりの中で動いていて、その中で賃金が支払われているのだから。知らなければいけないことは本当にたくさんある。
加えて、である。
何者かを、自身の仕事とは何かを、何より問い続けなければならない。
そして、自分で答えをださなければならない。
怒っちゃう自分、切れる自分、憤慨。こんなことを超える本当にタイミングだ。
クソガキ、って思っておけばいいんですよ、そんなことを言ってくれる人もいた。
言葉は違えど、仕事の自分から対応できていなければ、40を超えて本当に恥ずかしいことだ。