新しい職場は、新規立ち上げの施設だ。社会的養護が必要な子どもたちを対象に、その中でも情緒に課題がある子たちが主に入ってくる。なので、建前としては養護から治療に重心があり、そのために職員も児童精神科医、心理士が他施設よりも多く配置基準によって定められている。

 

私にとっては、正職員での採用からフルタイムでの仕事を続けることが、実は初めてのこと。

年休やら住宅手当やら、非正規の職員とこんなに違いがあるのか、という驚きもあった。同時に、生活があり、家族があり、そんなに仕事に意欲がないのであれば、なんとなく仕事をしている感じを「仕事」としていることもわかるような気がした。自分がそうじゃないとは言えない。でも、そういう仕事をしたいとは思わない。当たり前かもしれないし、一人だし、社会人経験もないから、こう思うのかもしれないけど、このタイミングではじめる仕事は全力で取り組むつもりだ。

 

しかし、いつもこうやって言葉を並べ立てるのがパターンでもある。その実際を体験していくこと、プロセスをどのように作り上げていくかが、これからの課題である。クセ、を抜け出していくこと、行動を変えていくことが、結果的に私に必要なことなのだから。

 

では、そのために何が必要で、どこがポイントになるのか。

それが、今日のテーマにした「つまらないことにこだわってしまう自分」だ。

そう決める。そうしたときに、浮かび上がってくることは?

 

仕事がはじまって2週間が過ぎた。

子どもたちも職員も、そして私も我が出始める。そして、私のパターンとしては正しさを主張し始める。

こんなに経験もなく、よくぞ主張できるものだと自分でも思うのだが、やってしまう。

それは、根底には自分を守りたい、否定されなくない、上に立ちたい、支配したい、というような、これこそが「幼さ」であると思う自分がいる。こいつをしっかり否定していくことが、頭ではなく、目の前の現実、状況を通じて現れた自分を通じて、しっかり否定していくこと、そして行動を変えていくこと。これが成長のパターンになるはずである。

 

つまらないことにこだわってしまう自分、の大きな体験を私は持っている。ヒントとなる事象を体験している。

日野先生の武禅での時間だ。ダラダラと続ける参加者にイライラしていたとき、他の参加者がアドバイスをしだした。私は、別に思っていたことがあり、そのアドバイスにもイライラして、その行動を頭の中で否定していた。こんなことがあったのだ。

 

しかし、後にレポート書くときにはっとした。

自分じゃ何もしようとしないクセに、なんとかしようと行動を始めた人のことを、否定して文句言っているお前はなんだ!!

これが俺の姿だ。一番嫌いで、ダサい、オヤジの一番キライなところにそっくりなことを自分がしていた。

 

先生からのレポートに、こうして否定していくのだと、それしか幼さを脱する方法はありませんと、書かれていた。

 

私は、セミナー等にはまっていた時期があり、自分を否定する、という言葉にアレルギーのような感覚があった。

だけど、このとき、そのアレルギーの膜のようなものを突破した。

 

まさしく、本当に私にとって大切な何かに「触れた」体験であった。

 

だから、自分が持っているパターンに気づいて、超えていくというのは簡単なものではない。

武禅という逃げ場の無い場で、あのメンバーに囲まれていたからこそだからだ。

だけど、自分でやっていくことが、これからの力になるし、出会っていく人たちとの意味にもなるのだろう。

 

つまらないことにこだわってしまう自分なんだ、という自覚が生まれたとき、そのタイムラインから降りるという選択肢がうまれた。どうしたらいいのかは、わからなくても、これはいつものパターンであり、言っていることややっていることの目的は「自分を認めてほしい」という幼き自分なのだ。

 

真ん中にもどって、仕事に集中だ。

身の程を知って、自分の仕事をまずしっかりこなす。

自分の意見など今は捨てておけ。

 

アホな頭だ。考えるということが身につくまでは、今は捨てておけ。

でも、考えろ!

しっかし向かい合って、しっかり聴いて、ちゃんと触れて、まっすぐに届けろ。

 

「眼で聴く」

 

僕の人生の大きな指針になった。