新しい職場での仕事がはじまって一週間近く。
三日目に腸炎らしきものになり、いきなり休んでしまったが、それでどこか吹っ切れて、力が抜けた。
と思いきや、今日は力が入りすぎて、周囲にピリピリとしてしまった。
すかさず、子どもから「そこで喧嘩しないで」とツッコミがはいる。
色々なことが、はじまりと終わりを同時進行している。
ある事象に対して、昔と同じような反応がありながらも、それに流されない自分もいる。
この「自分」と呼んでいるものは、では果たして新しく生まれたものなのか。
成長した、それこそ「自分」なのか。
たぶん、好みや甘え、といった結局の所、誰かに守ってもらえていることを手放し始めたのではないか。
そんなこと、今考えることではないが、個人の私として見たときには、40も超えたいいおっさんが立っている場所は、そういったところではないか。
日野先生に出会い、その仲間たちに出会い、これまでであったたくさんの人々、恩師、仲間、その関わりの宝物たちが私の中につまっている。でも、今はつまっているままだ。文字通り、詰まっている。
砂鉄が磁石にくっついて、磁力の流れを示すように、この宝物たちの数々が、ある流れを持って繋がり始めようとしている気がする。それは、テーマに書いた、もしかしたら「意志」というものに触れ始めたのかもしれない。
仕事を通じて、だ。
今日も昨日も、それことつまらないことに反応している。
どうでもいいことに、こだわっている。
しかし、どうでもいいことだ、ということが自分の中に基準として生まれている。
このことが、とても大切なことだ。
若い理学療法士の仲間に、出会った。
あったときから、不思議と心に残り、ご縁もあって何度か稽古の場を共にした。
私にとって、大切な存在の一人になっているのだが、それはどんな「意味」をもっているのか。
彼が、理学療法士としても、一人の男としても、成長が早く、私にとっても大切なことを、遠回りせずにまっすぐ進み続けることができるのは、一体なぜなのか。
私個人の「何」が、彼をひっかからせるのか。
彼は、私がうまく逃げる、なんとなく見ない、それは実は、一番見たくなくて逃げたいこと。
そこをまっすぐに進む人なのだ。そして、本当は私もそう生きてみたいのだ。
こうしてしまうと、また、自分はそうしない口実を作っているようなもんだが、言葉にするとそうだろうと思う。
命、としてみたときに、「生きる」「生き残る」というものが、一番根本の意志なのだろうと思う。
しかし、それは肉体としての命で終わらない、もっと大きな、魂というようなものも含まれていると思う。
そうしたときに、命を掛けてでも、成し遂げたいものが、自分にこそげおとされてくるのではないか。
こんな風に簡単に書いて良いことではないし、こんな軽いものではないけれど、そんな風に考えたときに、さっきのつまらない反応が本当にどうでもいいことなのか、それとも、その中に自分の成長の種が見いだせることなのかが、見えてくるのではないか。
そこから見れば、相手がどうであるか、とうのは本当にどうでもよいことだ。
そのつまらないことにこだわり結局、何をしているかが、先程の彼を通じて、ちんけな自分としてみえてきてしまう。
人は、それぞれの場所で、それぞれの課題を抱えながら、仕事をしているのだから。
是を是といい、非を非という。
以前出会った言葉であるが、これに尽きるのだ、やっぱり。
この言葉に出会った場所が何であれ、自分に深く残っているのは、こういうわけなのだ。
昔から、考えて考えて答えを出してきたタイプではない。
考えてろくなことにならなかったことばかりだ。
それは、考える、ということを考えたことがなかったからだし、そんな機会もないままだったからだ。
己の中に流れているもの。
大きなことはわからないのだから、そして、アホに考えればずれていくばかりなのだから。
もう一度だ。
毎日、何者として、生きるのか。
そして、目の前のことを、こなしていく。
まっすぐに向かい合い、目で見て、聞いて、話すのだ。
相手、相手、相手。
うっし!