年末だ。毎年帰省している。
沖縄へ行ってから、最初の頃はこの田舎へ来ることが新鮮でもあり、家の手伝いをやったり、近くの温泉や観光スポットへよく出かけて行った。

しかし、この一年特に慣れてしまったのか、家でぐーたらしていることが多くなった。

そして、毎年のごとく、正確にいつもと同じように、同じようなことに腹が立ち、後悔し、自分を責め、親を責め、反省して言葉を交わすことをやっている。

自分の嫌なところを親に見る。
吐き気がするくらい、そればかりだ。

呪いのように、決まったパターンから抜けることがない。そのパターンで物事をみて、考えている。
いや、考えているわけではない。ただの堂々巡りだ。

答えを出すつもりはないのだから。
なぜなら、答えとは何かが変わっていくということだ。ただの理解の答えは、答えではない。当たり前だ。だけれども、そこまでしかやってきたことがないのだ。ここから先が、本当の自分の人生だ。

次へ進もうと、ここからだと、自分でも周りからも言われる。

モヤモヤがずっと続いていて、寂しさのような、諦めのような、怨念のような、じぶんがダメな塊になってしまったかのように感じる。

あほか。中学生か。
そこで止まるのがアホらしい。真に受けて、その先に進もうとしていない典型が、家族関係に見事にみて取れる。家族関係ではないな、自分の態度だ。

分かっててやらない、とはどういうことだろう。
分かっていない、ということではある。
言葉遊びだということだ。

本当に、自分ごととして取り組んでいないというこただ。親のせい、自分のせい、誰かのせい。

その時、必ず物差しは何が正しいかである。
もちろん、自分にとってだ。
そして、そんなものは本当は何もない。
正しさほどいい加減なものはなく、だからこそ、そこにこだわる自分なぞ、どんどん嫌になって当たり前なのだ。

ここにあるものが、次に進む、の1つの答えだ。

こうしたい、ああいしたい。
こうあるべき、すべき。
こうなればいいのに、本当はこうなのに。
こうしたらいいのに、ああしたらいいのに。
みんな、今の自分の中からのものではない。
どこかから仕入れた価値観か、正しいと思う外側の何かに依っているものだ。

みないふりする典型のパターンだ。
結果逃げてきたもの、避けてきたものが自分の本音であり、本音というのは、己から何かに向かって真剣に向かった時、きっと湧いて来るものた。

こうしよう、ああしよう。
ただ、それがある。やればいい。

そこにはっきりと立つこと。
これが、次に進む第一歩だ。