今日は久しぶりに、大学の同じゼミだった友達と焼肉に行ってきた。

友達、とはいっても16歳年が違う。みんなは今年25歳、おっさんは41歳だ。

だけど、気楽に会って話ができるのは、きっと良いゼミだったのだと思う。

 

それぞれの現場で、それぞれの立場で、人生に向き合っている。

 

そんな中、生きづらいとこぼす女の子がいた。

その生きづらさは、恋愛関係で特に顕著に表れるという。

聞けば、母親に自分を受け入れられたことがないそうだ。そう、本人は感じている。

受け入れられない、というのは、こちらの話を受け取る前に、自分の話をはじめたりして、こちらの想いをくみ取られることがない、という体験のようだった。

 

それを聞いたとき、自分の父親を思い出した。同時に、日野先生から言われたことも思い出した。

 

「なんで、そんなにわかってもらいたいねん」

 

この友達の気持ちは、とてもよくわかった。同じような体験が自分にもあるからだ。

だけれども、実際にはわかった気になっているだけで、わかることは決してない。

同じ体験など絶対にないからだ。

ここが大切で、当事者として話をしたり、話を聞いたりしていると、時に当事者性を売りにしてしまうことがある。それは、わかるよ、それ!ということを前提にしてしまっていることだ。

そこに価値があると思い込んでいるからだが、これはとても危険なことだし、みっともない。

実際には、そんなことはどうでもいいことで、結果として相手が安心したり、話しやすかったりすることのほうが大切なことだ。それにしたって、狙ってやることではない。

 

この子も盛んに言っていたことがある。

自己肯定感が低いから、ということだ。僕も子どもたちと話すとき、親御さんと話すときに、よく使う言葉だ。だけれども、この言葉の実際と、この言葉でくくってしまうことの間に、苦しさがあるのだ。自己肯定感が低い、とは実際なんなのかを掘り下げることはしないのだ。

 

それを理由にして、納得していまう。とても便利な言葉。

でも、それ以上のことは起きないだろう。

 

今日は、友達に囲まれて、後半はこの子の話で盛り上がった。

バンバン突っ込みをいれる子。丁寧に聴く子、自分の体験を話したり、それこそ神様の世界の話をする子もいた。これが、いい。とても、楽しかった。

 

笑ってはいたけれど、41歳になっても、同じところでつまづいている。

そろそろまじやばいよ!と突っ込みをいれてくる。嬉しいね。こんな関係、いいね。

 

学校へいかなくても、引きこもっても、他人危害を加えたりしなければ、僕は選択できる中で何を選んでもいいと思っている。それは、その人の持っている環境や関係性の中でしか選ぶしかないのだから。そして、その可能性はなかなか見えるものでもない。

 

その意味で、やはりざっくばらんに語り合える他者の存在は、成長にとって必須であろう。

人は、他者との関係の中で腐りもするし、成長もする。だれかの言った一言が、人生を変えてしまうことだってある。しかし、だれにでも起きるのかといえば、それはわからない。

 

きっと、だれにでも大きく変わるチャンスはあるのだと思う。

それをつかむか否か、それはその人次第。自分次第。

 

こう書いて、自分へのメッセージとしたい。

こんな素敵な友達が、沖縄にもいたよ。

 

怪我して、なんとなく腐っていた気分が晴れた。

ありがとう。うん、やっぱり感謝って湧いてくるものだね照れ