怪我をして三日目、仕事も休んで家に引きこもっている。

こうしていると、20年以上前の引きこもり時代のことを思い出す。

 

結局、何も変わっていない。

やっていることも、悩んでいることも、考えていることも。

それが、私なのだ。

 

と、中学生のようなことを思ったりする。

夜中の3時にこうして文字をつづっていたり。

明日からの仕事も休む連絡をしていない。

 

投げやりだ。無責任だ。

と、自分を責めたてる。これも、中学生みたいだ。

 

ときおり、溢れ出しそうになる気持ちのうねりのような波がくる。

これも、何度も味わってきたものだ。理由はわからない。

理由はわからないけど、あふれてくるものは、涙なのだ。

 

20代に芝居をやり始めたとき、好きになった娘に限って、いつも怒鳴ってしまった。

そしてそれは、今も実は変わっていない。中学生の時も、保育園の時もだ。

その記憶がある。

 

保育園の時に、確か卒園式の場面だと思う。どこかの飲食店だろうか。

その子の脇腹を蹴り飛ばした。その子はうずくまり、こっちを睨んでいる。

その眼は、芝居を始めたころに喧嘩して蹴り飛ばした姉の目にも見える。

そうだ、芝居のビルの入り口でキレさせてしまったチビのあいつも同じ目をしていた。

階段で喧嘩になって突き飛ばした子も、それをかばいに来た子も、同じ目だ。

キレまくって過呼吸にさせてしまったおばあちゃん役の子も、オランダから留学してた日本人のホテルの娘も、最後はいつも同じだった。

 

いつの間にか人を好きになることを避けるようになっていた。

本気になることを避けるようになっていた。

いや、もしかしたら、人を好きになることを、最初から知らなかったのかもしれない。

 

いま、僕は人生のどのあたりにいるのだろう。

どうでもいいことだが。

 

つまらないことばかりだ。

そりゃそうだ。つまらなくしているんだもの。

 

産毛のように、楽しいことはいつも一緒にいた。

みじめさが、人生の友達になっていた。好んでつきあってきたんじゃないか。

みじめさは、僕にとってはさみしさをうめる一つの方法だったのかもしれないね。

 

しかし、もう40も過ぎて、この無様な自分をどうしてくれようか。

無様だと感じることが、みじめさを好んでいる証拠なのだが。

 

どう思っても、考えても、どうでもいいことだ。

この、ちっぽけな自分が何をどうしたって、自分の中だ。

本当に、たかがしれている。

 

引きこもってずっと重苦しいのは、怪我のせいだけじゃないだろう。

周りばかりよく見えてくる。

 

な、本当になんにも変っていないんだよ。

見事にそのままだ、世界の景色は。

 

このみじめさの気持ち、さみしさ、大切なものを、人を大切にできずに、愛し方をわからずに、暴れてい慟哭の闇夜が、あけるよ。

 

ここが、今の自分だ。

何も変わっていなくていい。

このひび割れた、いびつな心の真ん中に、すべてがひっくりかえる場所がある。

そこにしかない。

 

憧れてやまない、生きている衝動そのものの世界が。