そういえば、怪我をして救急にいって気づいたことがありました。

日野先生のもとで、武禅で、ワークショップで取り組んでいることの実際です。

今回は、怪我をした患者という立場で、お医者さんとやり取りしたわけです。

 

ぱっくり開いた膝の傷口をみて、病院でさらにはっきりとみて、

多少なりとも動揺したわけです。嘘、だいぶ焦っていました。

こんな時の自分の反応は面白いもので、急にはきはきとしゃべりだしたりしましたw

 

この若い先生は、最後まで丁寧に、私の目をまっすぐに見ながら、時折冗談もまじえて、しっかりと話をしてくれました。

 

これが、どれだけ安心感を与えてくれたか、患者の立場でこれを感じられたことは、とても大きな体験でした。

 

だってさ、必死やもん。だけど、変な感じになってるから、不安もあるし、いろいろ考えるし、、。

こんな患者という立場で、みんなドクターの前で出会うわけだ。

 

この安心感。これがすごく大事。

見えない部分の体の反応もきっと違うのではないか。

もちろん、家に帰ってからの身体の使い方や、受傷そのものへの捉え方まで影響があるはずだ。しかし、そこまで考えて患者と向かい合う人は少ないかもしれない。

 

相談業務、というお仕事も同じであろう。

しかし、しかしだ。

 

怪我した立場として、もしくは何かあって、相談にくるわけだ。

表面上は、何もない様子でいるかもしれない。

うそをついていたり、強がったり、大げさだったりすることもある。

 

だけど、今日のこの必死な感じ、わらにもすがるような、だって直接僕の身体に触れるのは、「あなた」なんですから。

 

関係性、というのはどこからはじまっているのか。

そして、「自分」といったときには、怪我をして今回とても不思議な感じがしたのだが、怪我をした身体は僕であって僕でないような感じだったのだ。

 

どこまでが、自分で、どこまでが「身体」なのか、わからなくなった。

今も、縫った場所は、どんどんくっついていく。当たり前だが、それは僕の意思とは関係がない、ように思っている。怪我をして、皮膚がさけて、血が出ていても、痛いと感じても、その反応は「だれ?」ということだ。

今日も、勝手にびっこを引いている。身体が、勝手にやっている、と思っている。

だけど、痛いときに、本当に痛みを感じに行くと、歩き方も変わるし、痛みがなくなってしまうことも本当にある。

ということは、ご飯を食べているじぶん、ラーメン、電話、会話、この身体を使ってやっていることは、ほとんどは「クセ」なのかもしれない。

 

だけど、身体という肉体、命が宿っているこの身体は、とてもいとおしい。

右ひざが動かないだけで、すべてが変わってしまう。

トイレも座れないし、お風呂も入れない。身体のバランスも全部かわっちゃう。

このバランス、の上で、僕は、生活している、と思っている。

 

本当か。

こける瞬間に発揮した集中力、反射。

必死。

 

この身体が、命が意志しているものと、僕の意識はずいぶんズレがある。

日野先生もおっしゃっていることだけれど、「じゃあ、これはだれ?」だ。

 

私とは、いったい何者か。

本当にこの愛の乗り物、身体を借りているともいえる。

だけど、それで食って、うんこして、おしっこしてるのは、まぎれもない「わたし」

 

生かしていただいてありがとう、それは確かにそうだけれど。

なんにせよ、食べているのは私なのだ。

 

生きているのだ。私が、生きているのだ。

 

ここが絶対大事なのだ。馬鹿だけど、ここは絶対そうなのだ。

理由はわかんないが、、。

 

だいぶ、話がとっちらかってしまったけれど、

目の前に来た人は、こんな気持ちでいるんだなって体験でもありました。

そして、誰にも言われず治っていく身体の仕組みに、宇宙の不思議を感じて、

今週の仕事をどうこなすか、逃げたい気持との葛藤です。

 

このかけがえのない価値、人の価値、命の価値と向き合っていくことが

もしかしたら、僕の喜びなのかもしれない。

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