ふと夜中に、友達のシェアで知った宮崎監督のテレビ放送を見始めた。

そのまま、全部観てしまった。

 

この人、侍や。

絶対、自分を譲らない。それくらいなら死んだ方がましだと、本気で思っている人だ。

 

そんな感覚を持った。日野先生と、どこか通じるような。

 

特に、ドワンゴの社長?かが、人工知能で作ったCGの動きを監督に見せるシーン。

監督が、生命に対する侮辱だと、おっしゃった。

そして、鈴木さんが、どこにむかっているんですか?と、問いた。

スタッフは、人間のように描ける機械、そんなようなことを答えた。

 

その後のシーンで、監督は、人間が自信を失っている、世紀末だ、とおっしゃっていた。

 

ズドン。

 

この流れでテレビをみていれば、だれしもが共感するだろう。

しかし、実際生活の中で、どちらの感覚で生きているかといえば、あの社長と一緒だ。

 

武禅を思い出した。

 

届ける、を練習しているときだ。

届けたいものがあること、それが届くのだ。

しかし、実際は形ばかりを追いかけてしまう。

そして、届いた、届かない、こうしたら、ああしたらとこねくり回して、やった気になる。

やった気になるのだ。

気になる、が、結局の所、目的になっているのだ。

 

つまり、逆を言えば、決して本質にたどり着かないように、自分自身でしているということだ。

それが、本流になっている時代なのだ。

 

生命。痛み。歓び。笑顔。涙。

泥臭いものだ。

さびた鉄棒の臭い、一人ぼっちで舐めた鏡の味。

殴られて、血が出た鉄の味。かっこつけてばれて恥ずかしくてかーっとなった身体。

寂しくて寂しくて、大声で叫ぼうとしたのに、声がでなかった一人ぼっちの部屋。

逆流する血。何かが腐った臭い。

ブーンという音。友達からの電話にドキッとしたこと。

振り切るように打ち込んだときの身体の痙攣。

死ぬ覚悟をして歩いた渋谷の街の風景の愛おしさ。

そして、嘘くさいと気づいた今。

 

生命への冒涜。

これを、どれだけ感じ取ることができるのか。

 

日野先生にお会いして、武禅に参加させていただいたときのこと。

冬の熊野の山の中、車で行った私に、みんながバスで出発した後に残っていてくださった。

 

和子先生とお二人で、送ってくださった。

理由はわからない。

だけど、忘れられない瞬間になった。

別に、めちゃくちゃ大切に何かされたわけでもない。

ごく普通の、いわばありふれた道場の送り出しかもしれない。

 

だけど、ボクの胸に、ずどーんと打ち込まれた。

生命。たぶん、あれが生命。

 

思い出すだけで、涙がでてくるのは、なぜだろう。

 

大好きな場所を訪れたときに、涙が流れてくることがあるのは、一体なぜだろう。

 

ボクが大切にしたいもの。

それは、やっぱりボクにしかわからないんだ。

 

道に入ろう。

道に。