以下は朝日新聞デジタルの報道記事です。

・ソプラノ歌手の佐藤しのぶさん死去 61歳、椿姫で主役

1958年、東京都生まれ。国立音楽大学卒業後、84年に文化庁オペラ研修所を首席で卒業。同年に「椿姫」の主役でデビューした。87~90年にはNHK紅白歌合戦に連続出演。当たり役の「椿姫」をはじめ、「蝶々夫人」などの公演で注目を集めた。

・テレビ報道も同様に、NHK紅白歌合戦の出場を伝えていました。

 

日ごろからクラシック音楽しか聴かない人間です、佐藤しのぶさんのレコードやCDを持っていない事もあり、佐藤しのぶさんのオペラを聞いたこともありません。多分、小澤征爾と同じで日本人のクラシック音楽演奏家という理由で一部にファンがいたという存在ではなかったのではないかと思います。普通に販売されているCDやレコードで聴くオペラでは、蝶々夫人や椿姫の主役にはイタリア人が多いと思います。

 

クラシック音楽は特別な音楽とは思いませんが、紅白歌合戦と同列にする感覚というのはクラシック音楽と演歌やポピュラー音楽の区別が出来ないという意味でもあると思います。この報道を聞いてクラシック演奏家である佐藤しのぶさんが紅白歌合戦に出ていると知ったのですが、視聴者の大半は理解できない世界の音楽を聞かされただけのことと思います。そういう意味では何故出演したのかという疑問も残りますが、いずれにしてもクラシック音楽愛好者からは、全く別物であるクラシック音楽と紅白歌合戦を同列にされるのはたまらないと感じました。同時に、日本人のクラシック音楽受容の実態が垣間見られたようにも感じられたニュースでした。

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 レコード芸術誌2018年5月号で「極彩色の失踪!凄み溢れる刻限的デュオ」と評されていたアルゲリッチの新譜。評者がプロコフィエフの音楽についてどれ程熟知して聴き及んでいるのか説明もしないで、いきなり良さそうなCDです、と謳っているのは何とも不思議な評だなと思いました。

もう30年以上も前、アルゲリッチのレコードが発売されると聞いて聞くのが楽しみでした。アルゲリッチのレコードはショパンコンクール盤をはじめ、独グラムフォンの初発売オリジナルから盤や日本では発売されなかったイタリア・リコルディ盤等をディスコグラフィで調べて殆どを入手していたという収集歴があります。CDの時代になっても最初はアルゲリッチの新盤発売された時は購入していましたし、CD初期時代には海賊盤もあり出来るだけ購入をしていました。
アルゲリッチのレコードやCDを進んで購入していたかと言えば、他の演奏家には無いスピリッツとでもいうべきものがあって、少しは感動できたような気がしていたからでした。特にショパンはルービンシュタインの形通りの演奏に比べれば、若い頃のアルゲリッチの演奏は明らかに即興性みたいなところがあって個性的な演奏を聴かせていたと思います。その後、1980年代にベートーヴェンやチャイコフスキーのピアノ協奏曲が発売されて、アルゲリッチの演奏は幅が広がったというだけでなくショパン弾きというジャンルを超えて印象に残りました。

昨今は、もう70歳も過ぎたアルゲリッチのCDが続々と発売されるのを見ていて、まるでレコード会社が儲かる演奏家として次から次に新しいアルゲリッチのCDを矢次早に発売されているのを見ると、最早演奏の中身ではなく知名度や人気度というものだけで売ろうという姿勢が見えて、長年のアルゲリッチファンも食傷気味と感じています。そういう理由で新発売されるアルゲリッチのCDは購入するのを止めてしまったということです。
特に最近は同じ曲目でオーケストラが違うだけのCDが発売されて驚きましたが、アルゲリッチの演奏のどういう違いがあって売りなのか全く不明で、明らかにアルゲリッチという名前だけで演奏内容等を理解出来ない客に売ろうとしているとしか思えませんでした。過去に発売されたアルゲリッチ主催の音楽祭シリーズCDものから抜粋したCDなどが発売されるというを見ると、今までに購入したCDの大半の演奏はどうでもよい演奏であって、CDを沢山売るために複数枚のCDを買わせていたのかと思うと少し腹立ちたくなります。
現在のクラシック音楽CD市場はありとあらゆるジャンルについてCDが出回り過ぎて、最早販売するCDも無くなり底がついたせいかと思えますが、90歳を過ぎたピアニストのCDが発売されると聞いて、クラシック音楽CD市場は驚きを通り越して呆然自失の何でもありという状況なのかとも思えました。
そういうクラシック音楽のCD市場の状況下にあって、知名度・人気度のあるアルゲリッチのCDが乱発される背景があると思えるのですが、アルゲリッチの演奏といえば最早や70・80年代の輝きが失せて、過去の人気にあやかった演奏風にしている形だけの抜け殻の演奏になっていると感じています。演奏家も金を稼がなくて生きていけないので演奏会とかCD発売とかで日銭を稼ぐことは生活上必要というのは理解できますが、私の個人的評価は演奏家としては最早過去の演奏家になりつつあると思います。                        
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 ( レコード芸術 2017年9月号 記事 )
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( SACDシングルレイヤーディスク )   イメージ 3
( PHILIPS 835154AY 初期盤 )
レコード芸術誌の評価を参考にして高価なSACDシングルレイヤーディスクを購入し、一番聞きなれているヴァイオリンソナタ第5番「春」を手持ちの初期盤レコードと聞き比べました
SACDシングルレイヤーディスクを購入した目的は手軽に操作できるSACDはレコードと同じ質感で聞けることを期待して購入したものです。SACDを聞き始めて直ぐに、音はSACDでノイズも無いのはいいとしても、音が痩せているという印象でした。音が痩せているというのはヴァイオリンの響きが足りないということです。ピアノも同様に低音が出ていないのでプリアンプの低音増強を行うと改善されましたが、ヴァイオリンの音は改善はされませんでした。初期盤のレコードを聴くとヴァイオリンの響きが豊かでSACDとは数段音質が違うのが確認できました。
比較のために最近発売されている重量盤レコードとも比較しましたが、重量盤レコードの方がSACDに比してヴァイオリンの音が豊かに聞こえました。
レコード芸術誌の評価は「SACD化は大成功」と評価しているのですが、この評価者はオリジナルのレコードを聞いたことがあるのかどうか疑わしく思いました。レコード会社の商品を売らんかなの提灯記事ににまんまとはまったのかと感じた次第です。
オイストラフのベートーヴェン「ヴァイオリンソナタ全集」はこのシングルレイヤーのSACDで聞けば済むのかなと期待していましたが、レコードで聞かざるを得ないかなと思いました。
本日は連休の2日目というので小用があって外出した時に、歩道のツツジが綺麗に開花しているのを見て小石川植物園のツツジを思い出し、急遽お昼くらいから出かけて撮影をしてきました。連休中なので人出が多かったのですが家族連れが多くて花に興味のある人は少ないようで撮影には難儀をするようなことはありませんでした。
ツツジは一部咲き終わったものもあり終末期に見えましたが、それでも何とかきれいなツツジやフジを見ることが出来ました。
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随分とご無沙汰している小石川植物園の梅の花も開花時だろうとは、通勤の道すがら見る塀の中の梅が咲いているのを見て分かったので、少しばかりの時間があったので本日2月25日の朝一番で出かけることにしました。
土曜日のせいか人出も少なく人の気配を気にする事も無く撮影しましたが、やっぱり梅の写真は難しいと思い知らされて帰ってきました。
フィルム写真に比べればデジタルカメラの撮影は画像を確認しながら何度も繰り返し撮影できるのが何と言っても初心者には大助かりなのを感じながらも、納得できる画像は得られないというのは何故なのかという自問自答をしながらの何時もながらの撮影となりました。
青梅の梅の里の梅の撮影は何度も行きましたが、病害ですべてなくなってしまったとの事ですが、何時くらいにかっての規模の花が咲くのかという別の事も思い出してしまいました。青梅の梅の規模に比べれば、小石川植物園の梅園は殆ど無いような位に小さなもので、それだけに遠くからも撮影できないというのがジレンマと思います。
風もほとんどない青天の下で、梅や桜の春の息吹を感じられたのは何年振りかかとも思いつつ、散策できたので
残り少ない命の洗濯ができたのかとも感じました。
つい最近クラシックカメラを購入したので、同時に撮影しましたが、こちらのカメラで撮影したフィルムは現像をしなくてはならんというので、心に余裕を持って忍耐強く結果を、待つことにしました。
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                                         ( 烏尾山から見た富士山 )
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                      ( 塔の岳から見た江の島方面 )
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                     ( 塔の岳から見た大倉下山方向 )
今年は年末年始の休日が短いので丹沢登山に半年ぶりに行きました。ヤビツ峠から塔の岳を経て大倉に下山する表尾根縦走コースで、登山には何時もより時間がかかってしまいました。年齢だけでなく普段から体を鍛えていないのがよく分かると感じさせられました。通勤で毎日4キロは歩いているのですが、だらだら歩きでは効果がないことが証明されたようなものでした。
一番の驚きは積雪があったことでした。念のために用意しておいたアイゼンが役に立ちましたが、登山者の7・8割はアイゼン無しですたすたと登っていくのには感心するやら驚くやらという感想を持ちました。
冬なので富士山が鮮明に見せることを期待しましたが、登山の最初では雲がかかっていたものの途中では雲が取れてきれいに見えて、登山する人が私を追い抜きざまに「富士山が励みになりますね」と言っていたのですが、富士山が鮮明に見えるので登山途中で写真撮影したいと思いながら、息が苦しいので途中の休憩場所でしか撮影が出来なかったのが残念でした。
烏尾山からみた富士山が周りの風景とも調和して一番映えていたように思いました。私がベンチに座ってから撮影していると、私の目の前で小学生の低学年らしい女の子がスマホをもって現れて撮影してから「すみません」と言ったので、小さいながら気遣いに出来ているのは親の躾が良いからだろうと感じて疲れをひと時忘れることが出来ました。

今月のレコード芸術を惰性で購入して何気なくページをめくっていたら唖然とする音楽評論を発見。長年レコ芸では評価の低かったレコードがお宝になっていました。長年のレコ芸読者としてはどう理解したらよいのかと思い、レコ芸誌に対する疑念が湧いたのでした。音楽之友社の編集者にもご意見を聞きたいような気がしていますが・・・。
音楽評論のいい加減さを見たようなきがしました。
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( レコ芸 2016年11月号 )
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( 2014 名曲名盤500 ボーザールトリオ は1点 )

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(  2011 名曲名盤300  ボーザールトリオはノミネートさえされていません 忘れ去られたのか? )

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( 2000  名曲名盤100 ボーザールトリオは最下位 )

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〈 1993  名曲名盤300 ボーザールトリオ3点)

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( 1983 名曲名盤500 ボーザールトリオは6点 2人が1位に投票 )
先週22日、レコード芸術誌10月号をレコード店で見てついつい購入しました。この、ついついというのは習慣なので購入したというものでした。発売日から2日経過しているので沢山うれたかどうかは不明でしたが、レジ横に積んであった3冊から1冊を購入しました。
自宅に帰り始めて表紙をよくよく見てみると「人生の50枚」というのが特集のようでした。中身を見ると毎月月評を書いている何人かの人達の好きなレコードとかCDを50枚を掲載するというものでした。感想から言わせてもらえば、クラシック音楽の他人の好みをわざわざ知らせてもらう必要はさらさらないし、見る気も起きないという企画でした。こういう企画が出てくる背景には、会社内でそろそろレコード芸術も廃刊が近いので、読者に勘ぐられないような廃刊記念特集でもしているとしか憶測できないものでした。読者が求めているのは新譜の情報とか、目新しい録音とかであって、他人の嗜好を知りたいと思う人はいるかもしれないけれど極めて少ないとしか思えません。
編集者も素人同然でマンネリした内容を追認しているだけとしか思えない裏事情がこういう時に表面化したものでもあると思えます。
誰とは言いませんが、毎月の同じ執筆者がしつこく興味の偏在した内容を延々と掲載しているのを見ると、最早仲間内でいい加減に仕事を回しているだけの事にしか見えないとも思えます。記者が新しい事にチャレンジする風土もなく自然にしおれる切り花同様、何時か来る枯れる時を待っているだけの状況のようにも見えます。こういう趣味を仕事をとする職種はサラリーマン根性が出すぎると当然ながら面白味も無くなるというものであると思います。

昨今レコード芸術誌を普通の書店で購入することもままならぬ時代になりました。数十年前には書店に山積みになっていた時代が変わったと感じています。そして、その象徴みたいな人が宇野功芳という人だと感じています。世のクラシックレコード音楽の盛衰の中で悲しくも道化ばかりを演じていたのではないかというのが感想です。
30年以上も以前にはレコード芸術の批評家連中は物知り気な顔をして、私の様な大勢の素人クラシック音楽愛好家に向かって、この曲の不滅の名盤はこれであるというような批評が毎月の連載に載っていました。当時はインターネットも無く、情報は雑誌や本でしか得られない時代で極めて情報量の少ないこともあり、そういう名曲名盤主義の情報が売れ筋の雑誌や本で紹介されると、それが真実のように思えていたのはまさに情報の少なさによるものであったとは近年のインターネットの情報氾濫からうかがえると感じているこの頃です。
その証拠として当時は見向きもされなかった指揮者のレコードが推薦されるということになると、批評記事のいい加減さを数十年も後に思い知らされるようで、非常に悪い気分になります。フリッチャイなんかはその典型です。
そういういい加減な批評をして散々金をレコード会社からもらっていた連中はとうにいないので、死人に罪なしというので、尤もらしく新しく発掘されたCDとして批評家の記事が連載されています。

そのレコード全盛時代に宇野の批評は舌鋒鋭いのが人気で、私もレコード芸術の宇野の批評記事が少ないのではないかという事に不満を持っていました。当時は色々な魑魅魍魎の先生という人達がベームとかカラヤンの販売代理店のような批評をしていて、このブログでも紹介しましたがレコード会社から相当の見返りを懐にいれていたという事が週刊誌で指摘されるような事もありました。今でもそういう慣習は残っていると思いますが、当時に比べれば天と地ほどの差があると思います、レコード会社自身がつぶれるかもしれないという時代になっていますから。それくらいに本当のクラシック音楽ファンは少なかいいう事実の裏返しでもあると思います。
私自身も宇野功芳の本を何冊かは購入してレコードの購入の参考にした時もありましたが、宇野自身も年齢と共に若いころの鋭さがなくなると魅力も薄れたように思えました。この人はワルターとかクナッパーツブッシュをえらく持ち上げるのが特徴で、ベームやカラヤンの時代には異色に思えましたが、現代のような多様な演奏形態が録音されるようになると演奏も多様なものを聞く時代なので、宇野功芳はそういう流行の空気を感じない評論家で現在では通用しなくなっていた人でははなかったのかと思っています。
レコード全盛時にはレコードの価格が本と同様の再販制度で守られて高値が維持されて多くの業者が潤っていたと思いますが、自ら首を絞めることになるとは思いもつかなかったCDの出現で様相は激変し、製造コストも下がったかも知れませんが売値も安くなり、中古のCDは100円でも売れないという時代になりました。仕方なくCDを纏めて箱売りして少しでも売上を増やそうとしているのが昨今の状況ではないかと思いますが、いわば音楽のインフレが起きているので益々少ないクラシック愛好家は買えるものがないという状況にあると思います。

宇野功芳がおかしいなと思い始めたのは、彼自身で指揮を始めたと聞いた時でした。多分、誰かにそそのかされてひょっとして批評家としてに人気からCDでも発売したら売れるのではないかと知恵を付けたのだろうとは容易に想像がつきました。当然ながら私はそういう素人指揮者のまがいものみたいなCDには興味も無く、一度も買ったことはありませんでした。宇野功芳のCDがレコード芸術誌での取り上げられていたのはまさに宣伝としての批評だなと思いました。レコード芸術誌が宣伝用雑誌なのでそれはそれでいいのですが、その中でも批評家が指揮してCDを発売するというのは倫理的な感覚として違和感があったのは間違いまりません。そういう風に感じていない宇野ファンがいるというのも知ったのもそのころだったと思います。小沢征爾のファンとたいして相違はないのだろうとも思っていました。
晩年にはレコード芸術の連載に音楽には関係の無い記事が延々と続いたのには苦痛の様に思えました。それに活字の文字も大きくなっていて最早連載を打ち切ってほしいと思っていたら訃報記事を新聞で読んで、息も絶え絶えに書いていたのかなと思うと哀れにも感じました。

レコードの全盛時には人気を博した批評家が盛衰と共に消えたという、その生きざまは時代を反映した道化師そのものではなかったのかというのが感想です。批評家と言えども飯を食わねばならんわけで、その飯の種として他人との違いを出して目立とうとしてみたり、自ら指揮をして糊口をしのごうとzしたりと悪戦苦闘していたのは、批評家として王道を歩いていたとは思えないというのが感想です。