今年の高3生はここ数年で最も学力の低いと思われるので、センター試験の結果についてはあまり期待はしていないのです。そもそもセンター試験は学力というより情報処理能力を試す試験だと思っていますので、この出来で生徒のアタマの良さを判定するなんぞありえないのです。(それがわかっているから東大・京大はじめ超がつく難関校は、合否判定にセンター試験の成績を重視していません)
私は自分が教えている生徒には、英語ができなくても、能力・人物をリスペクトできる者が数多くいると思って接してきていますが、勉強の出来・不出来にかかわらず腹立たしいのが自分の「力」をつけたいと思わない連中です。
今年の女子生徒はまさにそんな感じ。『早く結婚したい』という言葉はやや微笑ましく聞こえますが、相手は医師など社会的に地位と収入がある人に限り、自分はそういう人に養ってもらって贅沢三昧の暮らしがしたいと本気で言っているのを聞くと笑えんのです。
僅か18歳で他人に寄生する生活を夢見るって、『昭和の人類』である私には到底理解できない感覚です。昭和人の多くは戦後貧しい時代を生き抜き、時代の利があったにしても、刻苦精励・立身出世がひとつの精神的支柱だったのです。欲しいものは頑張って働いて手に入れるべきというのが、いわば一つの「正義」みたいなものになっていたわけです。
ですから、他人の成功の「おこぼれ」をもらうために尻馬に乗るなどというのは『たかり』と呼ばれ軽蔑されていました。
それがいつの間にか『楽に』『おいしい』が合言葉になる生き方が世の主流になりつつある気がします。それは格差社会が固定化するなかでは、出自以上の立身出世が難しくなっているからではないでしょうか?カネと権力さえあればウソでも平気で通る『何でもアリの社会』ですから、カネと権力のあとについて回ったほうが利口だと若い人が思うのも当然かもしれません。
先の女子生徒たちも自分が苦労して医大に行くよりは薬剤師や看護師になって(これらも決して楽ではありませんが)医者を捕まえるなどという荒唐無稽なことをマジな顔していうワケです。
大人の視線から世間知らずと鼻で笑うことはできますし、彼女たちが決してどんな男性の目を引くような美人の部類でないというツッコミどころはあるのですが…。でも、私には『気もち悪い』という感覚が心の底から湧き上がってきたのです。
試験というのは受験番号と得点の世界で、出自も財力も関係なく脚光を浴びることのできる世界です。だからこそ、私のような貧乏人の小倅でも難関といわれる大学に行けましたし、その夢を数多くの受験生に与えたいと思って仕事をしてきました。
しかし、経済格差が学力格差を生み、不条理な差別待遇が『裁量』の名のもとに行なわれるようになりつつある昨今、平等の象徴である試験が不平等の象徴のようになるのは我慢ならないのです。進学は自分の人生の夢を叶え、自分の力を社会に還元し、それによって自らの生活の糧を得るものです。
単に利己的欲求を満たすためだけなら、もはや教育は必要ないかもしれません。時代の流れというなら、徹底的に自己中心に流れていって一度この国も潰れたほうがいいのかもしれません。最近はそんな風にまで思うのです。