「親孝行、したいときには親は亡し」という有名な諺(言い伝え?)がありますが、これだけ高齢化社会になりますと、
「いつまでも孝行しろと親は言い」とか、
「逝かないと子供がすぐに高齢者」
「長生きが子供の貧困引き起こす」
なんてことになりつつあり(これらは私の自作(自虐?)ですが…)、こうした古いタイプの「親孝行」は流行らないかもしれません。みんな長生きするから親孝行はできるのですけど…。
でも、惚けて、子供が誰だか判別できなくなった親には「孝行」の二文字は理解できないのです。私もそうでしたが、会いに行っても、「あんた誰?」のような顔をして、名前だって知らない他人の名を呼ばれるのは子供の側から辛いものです。
これだけ誰でも歳を取れるようになった時代(昔は80歳過ぎて元気でいると妖怪のように思われた)、誰しもが進む道になるかもしれませんので、親孝行というものの形も変わってきてもいいのではないかと思うのです。
私が思う親孝行とは、できるだけ会いに行く、特に親子であることがわかっているうちにできるだけたくさん会ってあげることじゃないかと。認知症の方の気持ちはわかりませんが、親子という双方が持つ絆を忘れてしまうのが、人として生きていくうえで一番悲しいことじゃないかと思うのです。
結婚したって人生観は変わりませんが、子供が生まれる、子供が自分の足で歩くのを見ることで、自分の存在意味を感じる方も多いのじゃないかと思うのです。親子というのはそれだけインパクトのあるものなので、それが年齢と共に忘れられることは悲しいのです。
今でも私は元気なうちにもっと母と会っておけばよかったと思うことがあります。喧嘩をしても、冗談言いあっても、親子という絆を忘れられてはいないのですから。息子の名前すら出なくなったときは、親の心の中で自分はもう別人になってしまっているのです。
親も忘れたくて忘れているわけではないでしょう。でも、長生きによって認知能力に支障が出てくるリスクはあるわけですから、自分が子であるとわかっていてくれるうちに会う回数を増やすことが本当の意味の親孝行になってきているのではないか、とそう思うのです。
私にはもう義母しかいませんが、こうした意味で妻には週の半分は1人暮らしを余儀なくされている義母と暮らすようにしています。大変かもしれないけど、今だからこそ親子でいられるんだ、ということなのです。