東京では中学入試が始まりました。私立高校の入試までも一週間余りとなりました。もちろん大学入試も早いところは始まっています。プライベートでは子育てが終わったので、何か遠い昔のように感じられるのですが、受験に関わる仕事もしていると、1年の評価が出てくる時期ですので、多少の緊張感をもって過ごす毎日です。
 
志望校、進路の選択をする時に、多くの親は「夢を追わせたい」「好きな道を進ませたい」と言うのです。これ自体、決して悪いことではないのでしょうが、あまりにも大人の「ものわかり」がよすぎて気持ち悪くなることがありませんか?
 
時折、12歳~18歳で考えられる「好きな道」っていったいナンだろうと思うことがあるのです。確かにその年代が得られる情報力は親世代がその年代だったころに比べて格段に多くなっていますから、選択肢だって100倍くらいにはなっているでしょう。
 
しかし、教育を受けることの意義は、簡単に言えば社会に出て他者と「交流」し「自立する」スキルの基礎を身につけることだといっても過言ではないと思うのです。そりゃ、微分積分や日本史の年号、古文単語なんか社会に出ても使いません(役に立たないといわれることが多いのですが、正確には使わないと言うべきです)。
 
そういう意味では、現代は、昔より学校教育に求める意義があいまいになってきているのかもしれません。
 
でも、卒業後、その年限の何倍も長く生きていく中での信念(生き方)やさまざまな問題の対処法は学校教育の中で学ぶ思考法の延長線上にあることは間違いないのではないでしょうか。(他人とのコミュニケーション能力もそのひとつ)
 
そう考えると「好きな道」「夢を追う」というのは学校教育に求めるものとは違うのではないかと思えるのです。大学受験生は学部選びが多くの場合、将来の職業につながりますけど、中高生の場合には、サッカーがやりたいとか、あの高校のコーラス部が有名だからそこに入りたいとか妙な理由がついて回りますし、親が嬉しそうにそれを語るのを見ると、この方は卒業後の子供の一生までも背負っていく覚悟があるのかと感じるのです。
 
学校教育が長い人生の基礎涵養機関であるなら「好きな道」も「夢」も子供が卒業後の人生において自己責任で進むべきものではないでしょうか?その意味では「不都合な真実」も教えたうえで進む道を示してあげるのが大人の役目だと思います。
 
「不都合」というのは簡単に言えば「食えない」ことです。下流老人化する原因のひとつが子供のパラサイト化ですが、子供が「食えない」ことは親の老後にとってもハイリスクであることをどれだけの人が感じているでしょうか?
 
運動・芸術分野で食うことの難しさは周知の通りですが、30歳過ぎたら正社員の道はほぼ閉ざされるとか、有名食品メーカーの就職倍率が数百倍あるとか、研究職は採用しないか採用しても大部分は東大院卒だとか、大学院の博士課程を出ると却ってメシが食えなくなるとか…
 
勿論、例外はありますよ。でも例外はあくまで例外でして、だからこそ報道されるのですよ。ヒトが犬に嚙みつくのと同じなんです。犬が人に噛みつくのが例外なんて教えちゃいけないんです。(愛犬家の方には失礼な例になるかもしれませんが)
 
こういうと必ず「若者の希望の芽を摘む」なんて非難がくるのですが、リスクを知らずにリスクをとるというのは、夢ではなく妄想であり、タダの馬鹿がすることだと私は思うのですよ。それを推奨するなんて、むしろ若者の人生を台無しにする無責任な言い草だと思うのです。