師走ですね。
今年は長く付き合っている病は別として、大きなケガもなく(昨年は自転車で転倒し、肋骨3本を折る重傷を負った)、身内もつつがなく(昨年は母を亡くした)終わりそうだったのですが、昨日、義父が脚立から転落して頭を強打し、脳挫傷で意識不明の重体となりました。
傘寿を超えてはいますが、元気で庭仕事や家屋の修繕などもおこない、まだまだ元気で長生きすると思っていただけに、ショックです。妻や義母、義弟はショックのあまり茫然自失状態です。
医師の話では、意識が戻ることは難しいようなのですが、こんな私でも奇跡を願わずにはいられない気持ちです。
私ぐらいの歳になると、年末には年賀欠礼葉書が毎年やってくるようになりました。多くは自分の親が鬼籍に入ったということなのですが、人の世の習いとして、これから10年も過ぎれば、知人・友人の訃報を聞かされることも珍しくなくなるかもしれません。
いずれは自分も…というのが妙にリアリティをもって感じられるのです。
自分の命について最初に人生観が変わるのは経験上、子供が生まれたときでして(結婚しても人生観なんて変わるもんじゃないけど、子供が生まれると、こいつが成人すると私がこの世から退場になるという妙な現実感を持つのです)、次が親を亡くした時(いよいよ次は自分の番か!)なのです。
しかるに、人間というものは勝手なもので、年を取るほど平穏を願い、死というものを意識的に避けようとするのです。
そりゃ仕事も子育ても終われば平穏は欲しいですよね。でも、何もない人生は生きてこなかったのと同じで、最後まで「ナニか」があるものなのですね。
この世に生を受けた以上、その「ナニか」から逃れられないのであれば、従容と受け入れる、いや、むしろそれがやってくるのを楽しんでしまってもいいんじゃないか、私はそんな風に思うことがあります。
人生のチャンスも死神もどっちだって平等にやってくると思えば、思い悩まなくて済みそうです。
昨年、肋骨3本骨折という世間では重傷の部類の怪我をし、打ちどころが悪ければ、母をあの世で数か月先に待っているなんてことになっていた(寒くなると古傷が痛みます)と思うと、たぶん病気で死ぬと思っている私の最期もどうなるかわからんですねぇ。
いずれにしろ、義父の容態が気がかりです。