頼まれると嫌といえない性格なので、いいように使われていることがわかっていても、それもまあ自分の天与の人生か、と思うようにしているのです。ただ、他人の役に立つということを標榜すると、当然のように報酬なしでやってくれると思う人がいるのに辟易することがあります。

人間には本質的に相互扶助という遺伝子が組み込まれているからこそ自分以外の人のために何かをすることができると私は思っているのです。典型的なのものは寄付とか無償労働などがありますよね。こうしたものには寄付等をする側とされる側に利害関係はないのが普通です。そこに利害関係を持ち込むと、それは「ビジネス」になるのです。

ですから、是非はともかく、介護事業とかふるさと納税なんて言うのは報酬や対価が介在するという意味でビジネス(商行為)であると私は考えています。ビジネスであっても「〇〇のために」という主観的意思があれば、無償のものと(他人の役に立つという意味で)なんら異なることはないと思うのです。

その一方で、有償・無償を問わず、寄付行為をするものがされる者より、何らかの部分で(収入や生活など)で優越的であるか、安定性を有しているのが普通です。(これなしにできるのはまさに「生き神様」ですが、こうした特殊例は除きます)だからこそできるといっても過言ではないでしょう。

でも、こういう人の中には時折、そうした事実を忘れて自己犠牲に酔っている方もいます。厄介なのはこういう方でして、前提を忘れて他人にも同じこと要求してくるのです。飢えた人を救うために商店に行き、売りものをタダでく与えてれと言うことに異常性を感じなくなるのです。一方、商売人も食っていかねばなりません。つまり、先に述べた優位性・安定性を犠牲にさせようとしているのと同じです(金額の多寡ではありません)

相互扶助とは決して一方的に犠牲を要求することではないのです。正当防衛のように正と邪という構図ではなく、正と正という構図の中に相互扶助というのはあるべきではないでしょうか?士業の商品は時間と知識と正確性。これは店先の商品です。外見をお見せし、内容を説明するのはタダですけどね。

〇〇さんのためです。交通費も日当も出しません。役所に出そうとする書類の打ち合わせに出てきてくれませんか。ちなみに私はそれが仕事で給料ももらっています…。申し訳ないけど、そんなお誘いには乗れませんって。私は善人になっても神様にはなれませんから。