最後に残った証券口座の相続処理も終わり、4か月余かけて母の相続処理を終えました。仕事でしたらこんなにのんびりとはしないのですが、社会生活を送りながら、また、様々な思いを抱きながら処理を行うと、こんなに時間が経つのかもしれません。

ある意味で、相続処理を依頼されるお客様の気持ちが心にしみた数か月であったと思います。

さて、先日は支部で行っている市民相談の担当として出かけていきました。これ自体は自分のスキルアップと社会奉仕という意味あいで参加させていただいているのですが、ひとつの楽しみは2人ひと組で担当するので、同業者との情報交換ができることであります。

市民相談自体から仕事を受注する確率はかなり低いし、交通費込で1,500円程度の日当しか出ないのでベテランの先生でやる人は少ないのですが、普段支部の集まりにも出てこない(私も最近出ていきませんが)方と話をできる機会があったり、私の知らない業務に関して話を伺うことができたり、勉強になる機会も多いのです。

今回は不動産関係の法定外業務をメインとされている方と組んで有益な話を聞くことができましたし(おかげで相続・遺言関係の相談はほとんど私が答えた)、よほど運がよくない限り、白い紙に黒い文字を書くだけの行政書士が食えるはずがないというのを再認識したのですが、それ以上に人生のステージにおける「稼ぐ」ということの意味を考えさせられたのです。

その方の仕事は単価も高いので、数をこなせば相当額の稼ぎを得られるそうなので、開業当時の私だったら思わず食いついてしまいそうな話なのですが、ご本人はあまり欲がないようですし、私も食指を動かす気もありませんでした。確かに、子供が社会人になって、年金があって「食う」に困ることがなければ、欲を出さずにも住むかもしれませんし、それは私にもよくわかる気持ちであります。

自分が「食う」だけの稼ぎがあればそれ以上の欲は出さない、ということになれば、世の中は平和なのでしょうが、「下流老人」なる言葉が流行っておりまして、誰でもそうなる可能性があるんだと煽るむきが多いので、ついついいい年をしてもお金への執心を捨てられないのでしょう。

ですから80歳過ぎても老後のためとお金を貯めこんで、なまじ残して死んだために相続争いが起きるなんてギャグのような話があちこちで起こるわけです。

それは置いておいて、稼いで貯めておくから景気がよくならんことも事実なのです。確かに大病をしたら一気に下流老人化するのは事実かもしれませんが、もう子供が自立したら、稼いだものはつかってしまうといった生き方がいいんじゃないかと。(大病しても「治療しない」という選択肢もあるはずですから)

いつまでも人生が同じステージにあるわけでもなく、「まだまだ輝く」なんて商業ベースの言葉に乗せられ歳不相応なことをして世間の隠れた顰蹙をかったり、若し人の仕事を奪うようなことをするのはいかがなものかと。

人生のステージに後戻りはないのです。それでも先に進む、進みたいとするなら、稼ぐのはつかうため、働くのは自分のスキルを若い人に伝えるためと割り切ったほうがいいのではないでしょうか。

そうしないと、自分の墓には誰も来なくなってしまう。私はそう思っています。