3年前の震災の時は病み上がり半年で仕事もなく、ポスティングと研修三昧の日々でした。当日も地元商工会議所でセミナーを受講していたのです。

3年目を迎え記憶の風化が始まったといわれていますが、当時、私は被害を知れば知るほど自分ができることは(肉体的・経済的に自分の頭の上のハエを追い払うのに懸命で)ありませんでしたし、何をやっても偽善的な気がするのでした。

もともと募金なるものはどこに流れていくかわからない(現実に経費名目で名義団体の役員給与に使われることが多く、出したお金の半分も相手に渡らないのがほとんどなんですが、「善意」の2文字が免罪符のように使われて、許されていることに腹立たしさしか覚えないのです)。

ボランティアといっても…。いきなり行って、家や家族を失った人に「お手伝いできる仕事がありませんか」なんて声をかけるほど鉄面皮にもなれなかったのです。もっとも、ボランティアにいった人間がSNSの場で語ることの多くは「役に立てた」という自己満足ばかり…。

すべてがこういう人ばかりでないことは重々承知していることなのですが、自然の力に圧倒された人間に対して、同じ弱き人間がその傷を完全に癒すことなど不遜ではないのか、などと思うのです。

こう思うと神の「無作為の愛」という言葉が頭に浮かんできます。遠藤周作「死海のほとり」では、イエスは奇跡を起こすわけではなく、不幸に嘆き、奇跡を信じて近づいてくる者を哀しげな表情でじっと見つめているだけでした。この本を読んだ若い頃は、所詮神の奇跡なんてあるはずない、なんて思っていましたが、人間に全てを受け入れさせる、といったことも神の愛なんではないかと最近になって思うようになってきました。

そう考えると、単に同情でもゼニを渡すことでもなく、被災された方が再び人としての生活に戻るためにできることは、その地に仕事があり雇用があり自分の力で生活できるということを助けることではないかと。

それをするためには被災地の産業にカネを落とすことが第一だと思うのです。それも維持費に将来多額の税金を使わなければならない道路や箱モノではなく、被災地産のものを買うとか、そこへ旅をしてカネを落とすとかいうことが都会に住む私たちがやるべきことなのではないでしょうか。

3年目にこんなことを考えていました。