京都大学で起こった入試問題投稿事件ですが、みなさんいろいろおっしゃっていますので、私ごときがああだこうだというのも僭越なのですが、試験監督というものを数多くやった経験上、今回の事件は監督者のスキルの問題かとも思う次第です。
だいたい不正をしているかどうかって、当該受験生の近くによって監視するわけですから、そんなに近づいたりガン見していたら、相手も警戒しますわな。いちばん発見しやすいのは、受験生の後ろから監視していることなのです。不自然な動きは正面や横からはなかなかとらえにくいのですが、後ろから見ると一目瞭然です。
試験会場はどこも試験監督が歩き回っていますけど、ずっと後ろから監視しているところはありませんよね。人間は後ろに目がありませんから無防備になるのです。このことは万引き犯のあたりをつけることにも応用されているそうですが、どうも試験監督には行きとどかないようですね。
最初は、極小のカメラを使ったのかとか、眼鏡に発信機がつけられて、外の第三者が送信したのではないかとかいろいろ荒唐無稽な憶測が流れましたが、普通の携帯だったのですね。その才能他に活かせはいいのにね…。
三十数年前、私も京都大学の受験生でした。時計台下の床の割れ目から隙間風が噴き出してくる教室で試験を受けていました。いまでも覚えているのは、理科の試験中に受験生の間に問題訂正の紙が回覧されてきたこと。選択だったので科目が違う奴が多いと言えばそうですが、文系ですから当然生物が圧倒的多数。廻しているうちに隣や前の答が見えるんです。
のんびりした時代といえばそれまでですが、試験中に不正をはたらくという意識が、試験を実施するほうにも受験生にもなかった時代でもありました。
携帯がどうのこうのといい出す人もいますが…。以前、シャープペンシルの芯を入れる部分にカンニングペーパーを入れていたのが見つかったと、翌年から試験中のシャープペンシル使用を禁止にしたところもありましたが、あまり過剰に反応するとかえって滑稽になります。
ところで、不正をしてでも入学したい大学の意味とは何なのでしょうか?まず、そういうところから考えなければならないのですね。朝のテレビでは犯人の予備校生が早稲田に合格しているのを「早稲田に受かっていりゃ充分じゃないですか」なんて能天気なこと言っていましたが(本人が早稲田出身かどうか知りませんが)かの予備校生にとっては京都大学の学生になることが自己のidentityを認識する唯一の方法であったのではないでしょうか。
手に入れられない人間は手に入れられる人間の何百倍も手に入れたいと思うのです。本当に欲しいものが無かった人にはわからないかもしれませんね。
だいたい不正をしているかどうかって、当該受験生の近くによって監視するわけですから、そんなに近づいたりガン見していたら、相手も警戒しますわな。いちばん発見しやすいのは、受験生の後ろから監視していることなのです。不自然な動きは正面や横からはなかなかとらえにくいのですが、後ろから見ると一目瞭然です。
試験会場はどこも試験監督が歩き回っていますけど、ずっと後ろから監視しているところはありませんよね。人間は後ろに目がありませんから無防備になるのです。このことは万引き犯のあたりをつけることにも応用されているそうですが、どうも試験監督には行きとどかないようですね。
最初は、極小のカメラを使ったのかとか、眼鏡に発信機がつけられて、外の第三者が送信したのではないかとかいろいろ荒唐無稽な憶測が流れましたが、普通の携帯だったのですね。その才能他に活かせはいいのにね…。
三十数年前、私も京都大学の受験生でした。時計台下の床の割れ目から隙間風が噴き出してくる教室で試験を受けていました。いまでも覚えているのは、理科の試験中に受験生の間に問題訂正の紙が回覧されてきたこと。選択だったので科目が違う奴が多いと言えばそうですが、文系ですから当然生物が圧倒的多数。廻しているうちに隣や前の答が見えるんです。
のんびりした時代といえばそれまでですが、試験中に不正をはたらくという意識が、試験を実施するほうにも受験生にもなかった時代でもありました。
携帯がどうのこうのといい出す人もいますが…。以前、シャープペンシルの芯を入れる部分にカンニングペーパーを入れていたのが見つかったと、翌年から試験中のシャープペンシル使用を禁止にしたところもありましたが、あまり過剰に反応するとかえって滑稽になります。
ところで、不正をしてでも入学したい大学の意味とは何なのでしょうか?まず、そういうところから考えなければならないのですね。朝のテレビでは犯人の予備校生が早稲田に合格しているのを「早稲田に受かっていりゃ充分じゃないですか」なんて能天気なこと言っていましたが(本人が早稲田出身かどうか知りませんが)かの予備校生にとっては京都大学の学生になることが自己のidentityを認識する唯一の方法であったのではないでしょうか。
手に入れられない人間は手に入れられる人間の何百倍も手に入れたいと思うのです。本当に欲しいものが無かった人にはわからないかもしれませんね。