これだけの大震災、原発事故、そして、何よりこれまでのまったく無能が暴露され、なおかつ具体的な復興策も示せず、それでも無神経に居座ることができる、あきれ返ったまったくの無能首相を抱えながら、一方とてつもない円高、それに何の手立ても取れない、ひどい政治家たちによる政治的停滞をきたしているのに、東京の街を歩いていると、深刻さはない。そんな歴史的悲惨な状況でも、そんなことがあったのか、そうとは思えない、人々の街の笑顔。


しかし、まだ国民資産を裏にあるとは言えているのか、この円高ということが示すように、世界の経済レベルから言えば、まだ日本は、世界の中で、まだ恵まれているのであろうと思う。まだ苦悩の顔が街にはほとんど見えない。


私は、一般の人々より、比較的多く海外に出ているかもしれない。ただ世界はもっと苦悩を抱えた人々の顔がある。

その街でレンタカーを走らせ、信号で止まれば、窓ふき少年が突然現れ、頼みもしない窓ふきをして、作り笑いいっぱいの笑顔で金をせびり始める。別の国では空港から出て、バス乗り場までのわずかな距離を、荷物を運ぶという子供たちがあふれる国もある。


あくまで比較の問題だが、このような光景が見られない日本は恵まれているといえるのだろう。


ソマリアでは数十万の餓死者が予測され、国連食糧農業機関では世界では8億5千万の人口が栄養不良の状況にあると指摘する。


日本人の多くは、たぶんこのような社会で人々が現実に生きていることすら、ほとんど知らないのであろう。


いざとなれは憲法で最低限の文化的せ活を保障してくれる日本とは大きな違いなのだ。




だから、時に、今の日本のような人々はどこか間抜けた笑顔をしているように見えてならない。世界を知らない間抜けなマスコミに躍らされ、トンチンカンな平和論ばかりが横行し、現実を見ない。

(実は戦前も日本人は「井の中の蛙」で世界を何も知らない連中が、今と同じような政治家の権力争いばかりが続き、さらにそれに世界政治を知らない軍部が政治を奪ってしまったところに大きな問題があったのだ。今も昔も、日本人はのんきな「井の中の蛙」状態なのだ。)



世界の人々も、みな幸福を求める。その世界中の人々がもっと豊かな幸福を求めること起きたら、物資資源の奪い合いになり、また血みどろの戦争も始まる可能性は十分ある。いや、もうその兆候は十分に感じられる。


これは先の大戦の日本にしたって、時の政治の貧困が招いたとはいえ、資源獲得の戦争という一面がある。


たとえば原発にしたってだが、これだけの地球上の人間の生存のためには、膨大な原発をなくして、安全な地球を確保できるなどとのんきに思っていたら、それは現実を知らないことになる。


これだけの地球上の人口を戦争なしにエネルギー確保をさせるためには、原発も致し方ないと私は思っている。


こういう具体的解決策も念頭に入れながらの、平和論でなければ、何の意味もない。


独りよがりの、勝手な夢想だけの平和論こそ、人々の空想がゆえに、かえって危険な側面がある。


原発事故以来、日本の人々は過剰な原発アレルギーを持っているようだ。


しかし、冷厳な事実からみる、それも責任をもって仕事にあたる政治家なら、原子力のエネルギーをそう簡単に捨て去ることはできない。これが真面目な現実の政治家の判断だと思う。


政治家、事業家はあくまでも現実を判断しなくてはならない。毅然としたリアリストの一面を確保しておかなければならない。まして、国民のご機嫌をとるだけの、選挙に当選するだけを目的とする政治家は本来政治家とは呼べず、、政治を単なる生業とする政治屋に過ぎない。



ここは国民に嫌われても日本の政治家は厳しい現実を見る必要がある。それは医者が患者の言うことばかり聞き、本来の政治家としての判断を放棄するようであってはならない。


国民も、ちょっとばかり納税で、大きな権利意識ばかり持つのは、極めて見苦しい。


日本は、まだまだ恵まれていることを気が付かなければならない。


だからこそ、今の日本を大事にしなければならない。


恵まれているから『かんばろう、日本』が可能なのだ。


この事実をみて確認して、


さ、頑張ろう、日本だ!!




なんと、昨日のヒット回数は12.・・


最低記録。


難しすぎたかな・・



でも、嘘はないのだ。



大衆は何が真実かわからない。


特に大衆文化の花盛りの昨今、わかるはずがない。


しかし、そんなことには気にしない。


大衆、マスコミの寝言、うわごとなどきょうみはない。


恋と本当のことこそ大切なのだから。それを学ぶことはとても楽しいのだから・・

恋も美しいものも大切だし、そしてなにより真理探究もこれぞ人生を賭けるに値するものでありますぞ。



しかし、ヒット回数12には笑っちゃうが、12回のヒットに貢献してくださった方には感謝!!


楽しく生きましょう!!


(^-^)




私たちは日ごろ、生きることに夢中で、毎日、この生きること、すなわち『生』に日々心を砕かなければならない。


ところが、幸いなるかな、日本は長くお盆という習慣があり、会社などもお盆休みに入ることになる。


その伝統は、今、『生』きている我々が死者を迎えることになる。いや、墓参りなど、その場合死者を思う、ことなのだろう。それはまた、自分の『死』を思うことかもしれない。


私たちには記録があるかないかにかかわらず、必ずご先祖様がいる。私一人が無から生まれたわけではない。長い長い、おびただしい生の受け渡しが続いた,、その一つなのに過ぎない。仮にどんないかがわしい親であったとしても、その生は無から生まれたわけではない。


しかし、ともすると、この事実を気が付かないため、自分一人で生まれたかのように思いたがる。自意識過剰なのだ。もちろん私たちは、ご先祖様同様、またその死を受け入れるときがある。ただ、生命は無からは産まれない。必ず生んだものがいる。仮にⅰPS細胞からであっても、必ずその生命の基がある。


私も必ず死を受け入れることになるのであるが、ただ現代は、率直に『死』を考えることが難しくなっているのではないか?


何故なら、あまりに『生』ばかりにとらわれた、生のためばかり、日々を生きているからだろう。それはあたかも永遠に、この世の生命が保障されているかのように、勘違いしているかのようだ。特に昨今では、日々の生活から『死』を忘れさせる世の中になってしまい、いたるところで安易な安全神話の勘違いが蔓延しているからだろう。


しかし、今回の大震災、大津波でもわかるように、我々人間は、本当は明日の命すら、本当は保障されてなく、今の自然科学にしたって、実は、かなりの不完全なものの上に立っていることを知らなければならない。



先に、私は宇宙理論物理のホーキング博士の死生観を批判した。


それは、このホーキングが、基礎論から言えば、必ずしも十分とは言えない方法論から、この不完全な自然科学の理論の範囲だけで、生死を含めたすべてを語ろうとしているところが、極めていかがわしいと判断したからだ。


現代の人間が考えた範囲の、この今の自然科学がすべて正しいなどとはとても言えないからだ。自然科学の不完全性など、根本を問えばいくらでもあげられる。それを無邪気に信じているほうが、幼稚に思える。


人間のまだまだ知らない、人間の思考の届かない『知』の存在だって、考えることは可能なのだ。


まして、人間の一回性、すなわち、魂が一回で消滅するかどうかもわからない。これがほんとうのところだ。


人間はもっと謙虚にならなければならない。


所詮、この世は一回だけなのだから、心の良心の呵責などさっさと捨てて、自分のやりたいように生きればいいなどといっても、その一回性が、疑いようのない、確証性、確実な真理であるわけまったくなくく、こじつけた適当な論理で、そう思っているだけの勘違いの寝言である可能性も十分あのである。


いまっだに『死』はわからないのである。


お盆なので、このようなことも話したが、ここは、ご先祖様を思うことの大切だが、自分の『死』も逃げることなく、謙虚に見つめたほうがよいのでhないかと思う。


(^-^)