私たちは日ごろ、生きることに夢中で、毎日、この生きること、すなわち『生』に日々心を砕かなければならない。
ところが、幸いなるかな、日本は長くお盆という習慣があり、会社などもお盆休みに入ることになる。
その伝統は、今、『生』きている我々が死者を迎えることになる。いや、墓参りなど、その場合死者を思う、ことなのだろう。それはまた、自分の『死』を思うことかもしれない。
私たちには記録があるかないかにかかわらず、必ずご先祖様がいる。私一人が無から生まれたわけではない。長い長い、おびただしい生の受け渡しが続いた,、その一つなのに過ぎない。仮にどんないかがわしい親であったとしても、その生は無から生まれたわけではない。
しかし、ともすると、この事実を気が付かないため、自分一人で生まれたかのように思いたがる。自意識過剰なのだ。もちろん私たちは、ご先祖様同様、またその死を受け入れるときがある。ただ、生命は無からは産まれない。必ず生んだものがいる。仮にⅰPS細胞からであっても、必ずその生命の基がある。
私も必ず死を受け入れることになるのであるが、ただ現代は、率直に『死』を考えることが難しくなっているのではないか?
何故なら、あまりに『生』ばかりにとらわれた、生のためばかり、日々を生きているからだろう。それはあたかも永遠に、この世の生命が保障されているかのように、勘違いしているかのようだ。特に昨今では、日々の生活から『死』を忘れさせる世の中になってしまい、いたるところで安易な安全神話の勘違いが蔓延しているからだろう。
しかし、今回の大震災、大津波でもわかるように、我々人間は、本当は明日の命すら、本当は保障されてなく、今の自然科学にしたって、実は、かなりの不完全なものの上に立っていることを知らなければならない。
先に、私は宇宙理論物理のホーキング博士の死生観を批判した。
それは、このホーキングが、基礎論から言えば、必ずしも十分とは言えない方法論から、この不完全な自然科学の理論の範囲だけで、生死を含めたすべてを語ろうとしているところが、極めていかがわしいと判断したからだ。
現代の人間が考えた範囲の、この今の自然科学がすべて正しいなどとはとても言えないからだ。自然科学の不完全性など、根本を問えばいくらでもあげられる。それを無邪気に信じているほうが、幼稚に思える。
人間のまだまだ知らない、人間の思考の届かない『知』の存在だって、考えることは可能なのだ。
まして、人間の一回性、すなわち、魂が一回で消滅するかどうかもわからない。これがほんとうのところだ。
人間はもっと謙虚にならなければならない。
所詮、この世は一回だけなのだから、心の良心の呵責などさっさと捨てて、自分のやりたいように生きればいいなどといっても、その一回性が、疑いようのない、確証性、確実な真理であるわけまったくなくく、こじつけた適当な論理で、そう思っているだけの勘違いの寝言である可能性も十分あのである。
いまっだに『死』はわからないのである。
お盆なので、このようなことも話したが、ここは、ご先祖様を思うことの大切だが、自分の『死』も逃げることなく、謙虚に見つめたほうがよいのでhないかと思う。
(^-^)