パトリシア・ハイスミス『見知らぬ乗客』 | 文学どうでしょう

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パトリシア・ハイスミス(白石朗訳)『見知らぬ乗客』(河出文庫)を読みました。

 

ミステリの中に「倒叙もの」と呼ばれるジャンルがあります。普通のミステリではまず事件が起こって、どのようなトリックが使われたか(How)、そしてその犯人は誰なのか(Who)が、探偵役によって解き明かされることが多いですよね。

 

ところが「倒叙もの」というのは、犯人側の視点で描かれたミステリのことで、つまり「倒叙もの」では、ミステリの本来の醍醐味であるHowもWhoも最初から読者には明かされてしまっています。なので、論理的というかパズル的というか、そういった面白さはありません。

 

では、「倒叙もの」の何が面白いのかというと、犯人が何故その犯行に至ったのかの心理の動きが克明に描かれることが多く、それがなんといっても興味深いのです。そしていかに犯罪計画を立てていくかや、いざ実行した際に起こる思わぬハプニングなど、ハラハラドキドキのサスペンス感があるのも魅力的。

 

ロジカルなミステリを好むか、それとも心理小説やサスペンスを思わせる「倒叙もの」を好むか、この辺りは読み手によって分かれるところだと思いますが、「倒叙もの」では知能の高い犯人が探偵役に挑む構図になることが多くてそれも面白く、個人的には「倒叙もの」大好なのです。

 

そうした「倒叙もの」の金字塔と言えば、ルネ・クレマン監督、アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』(1960年)やマット・デイモン主演の『リプリー』(1999年)などで何度も映画化されているパトリシア・ハイスミスの『リプリー』。このブログでも以前(2012.01.23)紹介したことがあります。

 

 

 

 

同じ原作小説ですが、『太陽がいっぱい』と『リプリー』はそれぞれ結末が大きく異なっていて、どちらの映画から観ても楽しめると思うので、まだ観たことがない方はぜひ観てみてください。また、原作小説の「リプリーシリーズ」も河出文庫で新しい版が出たので、またその内取り上げていきたいと思っています。

 

そして、そんな『リプリー』で知られるパトリシア・ハイスミスの最初の長編小説が、今回紹介する『見知らぬ乗客』。金持ちの父親を憎む若者ブルーノと浮気性の妻と別れたい建築家のガイが列車で出会い、交換殺人の計画を思いつくというお話です。

 

殺人事件の犯人を捕まえるためには、動機があり、かつアリバイがないことが必須なわけですが、もしも見知らぬ他人同士が殺したい相手を取り替えたら、お互いに鉄壁のアリバイが作れますから、完全犯罪が成立するのです。

 

ミステリ史上、最も早く交換殺人のテーマを使ったとも言われるこの『見知らぬ乗客』は、登場人物にかなり癖がある(特にブルーノ)ので、その辺りは好みが分かれると思いますが、とにかくプロットの面白さが秀逸な作品です。

 

作品のあらすじ

 

離れて暮らす妻ミリアムからの、愛人との子供を妊娠していること、会って話したいと書かれた簡素な手紙によって、メトカーフへ向かう列車に乗っている建築家のガイ・ヘインズ。離婚するだけならなにも直接会う必要はないだろうにと考えながらガイは本を読んでいました。

 

差し向かいの席に腰かけたのは、ひたいに大きなにきびをこしらえた赤錆色のスーツを着た若者。どうやらほろ酔いのようです。座りなおろうとしたガイの足が若者に当たってしまい、謝ったことをきっかけに二人は少し会話を交わしました。

 

チャールズ・アンソニー・ブルーノと名乗り、休暇でサンタフェに向かうところだというその若者と食堂車で再会したガイは、ブルーノに誘われてブルーノの特別寝台車三号室に移って、よもやま話をすることになります。

 

父親への不満を口にするブルーノ。元々は母親の実家が財産を持っていたのに父親がそれを自分名義に書き換え、ブルーノが受け継いで、もらえることになっていた収入も渡そうとしてくれないこと。商売に熱心な父親を軽蔑していること。

 

その熱に釣られるようにガイも自分のことを話します。パームビーチに新しく出来る〈パルミラ・クラブ〉の設計という、大きな仕事を請け負うことになっていること。そして、結婚してすぐに浮気をし始めた妻のミリアム・ジョイスとは三年前から別居していること。

 

探偵小説を愛好するブルーノは父親を殺すいくつかの方法を空想しているといい、ガイにミリアムを殺したいと思ったことはないかと尋ねるのでした。ガイは否定しますが、もしも〈パルミラ・クラブ〉の仕事がうまくいかなくなるようにされたらと聞かれて、動揺します。

 

バスルームの電球ソケットを壊して感電させる方法や、ガレージに一酸化炭素に充満させる方法など、おすすめの殺人方法について愉快そうに語っていたブルーノはふと、二人なら完全犯罪が実行できることに気付いたのでした。

 

 ブルーノは両手をぴしゃりと打ちあわせた。「そうだ! すごくいいことを思いつきました! 殺す相手を交換したらどうでしょう? ぼくはあなたの奥さんを殺し、あなたはぼくの親父を殺す。ほら、ぼくたちはこの列車で会っただけだから、知り合いだってことはだれにも知られてない! 完璧なアリバイだ! わかります?」
 目の前の壁が、いまにも内側から弾け飛ぶかのように、規則的なリズムでびくんびくんと搏動していた。殺人。その単語にガイは胸がわるくなり、恐怖を感じた。ブルーノから身をもぎ離して車室の外へ出ていきたいのは山々だったが、悪夢のような重みがのしかかって足が動かない。目の前の壁をもとの状態にもどし、ブルーノのいまの言葉を理解しようとすることで、ガイは動揺から立ち直ろうとした――というのも、ブルーノの言葉にはそれなりに筋が通っていたからだ。たとえるなら、問題やパズルの解法のように。(54頁)

 

「もうその話にはうんざりだ」(56頁)と、ブルーノの恐ろしい誘惑を一蹴してブルーノと別れたガイでしたが、動揺していたせいかブルーノの車室に読みかけの本を忘れてきてしまったのでした。メトカーフに到着したガイは早速ミリアムと会います。

 

ミリアムとの離婚の話がまとまると思っていたガイでしたが、ミリアムのお腹の子供の父親が既婚者であることを知らされ、ミリアムがすぐには自分と離婚をする気がないことが分かります。ミリアムはパームビーチに一緒に連れていってほしいと言うのでした。

 

ガイが設計を手掛ける予定の〈パルミラ・クラブ〉があるパームビーチ。もしも愛人との子供を妊娠している妻を連れていったらスキャンダルになりますし、何よりもガイには今はアン・フォークナーという実業家の、真剣に交際している相手がいるので、ミリアムに自分の人生はなにもかもめちゃくちゃにされると思うのでした。

 

ガイが忘れていった本を返すためにガイの行方を探していて、ミリアムの存在に困らせられている、ガイの窮状を知ったブルーノ。そして、ガイのアリバイが成立し、かつ自分が家族の目に止まらずに自由に動ける、日程として完璧なタイミングがブルーノに訪れます。

 

自分にやれるかどうか何度も自分自身に問いかけるブルーノでしたが、このタイミングを逃せば永久に実行できないと考え、また「個人的な動機がまったくない純粋な殺人」(100頁)に魅せられたブルーノは、ガイにも知らせず、ミリアムの殺害を試みて……。

 

はたして、見知らぬ乗客同士による、交換殺人計画の結末はいかに!?

 

とまあそんなお話です。一人の犯人による心理が明かされるのが普通の「倒叙もの」の特徴なのですが、殺人を行おうとする二人、しかも自分が殺さなければならない相手には何の恨みも憎しみもない二人の心理が明かされていることに、この作品ならではの特徴があります。

 

簡単に言えば、犯人側は一枚岩じゃないわけです。ガイはブルーノのことを恐れ、憎み、かつ同時にもう一人の自分のようだとも考えます。一方のブルーノはガイのことを敬い、愛着を持ち、しかし自分の思うようになかなか行動してくれないことに苛立ちもします。

 

ガイとブルーノの間に生まれる亀裂、しかしながら同時に惹きつけ合いもするような、愛憎入り混じる関係性が非常に独特な作品。そういう描写は作中には実際にはないのですが、ガイとブルーノに同性愛のような関係性が見えるとする解釈もあるようです。

 

それも納得がいくような感じで、交換殺人がテーマの作品ではあるものの、そこに焦点はあまりないというか、むしろガイとブルーノの妙にこう、どろどろとした二人の関係性に焦点があたっている、他にあまり類のない、独特な質感のする作品だと思います。

 

ミステリ的な面白さはあまりないですし、おしゃべりで情緒不安定な感じのあるブルーノが終始うざいのが好みの分かれるところだと思いますが、物語がどう展開していくかが分からず、思わず続きが気になるスリリングな作品なので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。