ポケットマスターピース03『バルザック』 | 文学どうでしょう

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ポケットマスターピース03(野崎歓編)『バルザック』(集英社文庫ヘリテージシリーズ)を読みました。

 

「ポケットマスターピース」の中で、個人的に最も面白かった巻が、今回紹介する『バルザック』の巻。これは興奮ものの、素晴らしい巻でしたね。選ばれている作品や、編集の方針がとてもよいと思います。

 

バルザックは文章は読みづらいし、物語の世界観は把握しづらいしで、決して読みやすい作家ではなく、なので全員に手放しでおすすめできる感じではないのですが、個人的にはぶっ刺さりました。いやあ読んでよかった「ポケットマスターピース」。

 

バルザックは元々、手に入りやすい文庫を中心に、それこそ『谷間の百合』とか、この巻にも収録されている『ゴリオ爺さん』とかを何度か読んだことがあって、このブログでも以前、それぞれ新潮文庫の訳で紹介したことがあります。(2011.7.28と29)

 

面白く感じはしたものの、その二つの作品は関連性があまりないので、バルザックの大きな特徴である「人物再登場法」についてはあまりよく分からなったんですよね。ご存知の方も多いと思いますが、バルザックの数多くの長編や短編には、「人間喜劇」として書かれているものがあるのです。

 

「人間喜劇」という一種のシリーズというか、その大きなくくりの中では、ある作品に登場してきた脇役が、別の作品では物語の主人公になったり、仄めかされている事件の詳細が別の作品で語られてりしているらしいのです。興味深い、面白い手法ですよね。

 

そのことを文学史的な知識としては知っていても、それが実際にはどういった感じなのかいまいちピンと来てこなかったのですが、ある一人の登場人物に着目して編集されたのが、この『バルザック』の巻。編者の野崎歓による解説を引きます。

 

 しかし本巻の編集にあたって、編者が迷いなく選んだのは、ヴォ―トランの導きに従うというやり方でした。ヴォートランとは、バルザックの生み出した人物たちのうちでも最も強烈な印象を与える一人であり、名だたるバルザック読みの胸を熱くさせてきた特別な存在です。〔中略〕
 脱獄して偽名で生きるこの変装の名人は、『ゴリオ爺さん』から『幻滅』、そして『浮かれ女盛衰記』という三大長編を縦断して活躍し、その変幻自在ぶりで目を奪いつつ、罰当たりな人生哲学を随所で披瀝し、戦慄的なスリルを小説に吹き込んでいるのです。(726頁)

 

この『バルザック』の巻では、ヴォートランというキャラクターが脇役として登場する「ゴリオ爺さん」の全訳、ヴォートランが変装して登場する「幻滅」の一場面と「浮かれ女盛衰記」の結末部分の三編が収録されています。

 

「幻滅」と「浮かれ女盛衰記」はダイジェストが多く、本当に一部分だけの収録なわけですが、この巻全体で三部作と言えるような、テーマや人物の重なりがあるので、「ああ、『人物再登場法』というのは、こういう感じなんだ!」と感覚的に分かって、興奮しました。

 

さらに解説で、どの脇役がどの作品に出ているかなども書かれていたので、この本をロードマップというか道しるべのようにして、藤原書店の「人間喜劇」セレクションなどで、これからどんどんバルザックの作品を読んでいけそうですし、読んでいきたいです。

 

作品のあらすじ

 

ゴリオ爺さん(博多かおる訳)

 

「紳士淑女その他の下宿」と書かれた看板を門の上に掲げる下宿屋ヴォケー館では、様々な下宿人が暮らしていました。未亡人と、その未亡人が面倒を見ている若い娘ヴィクトリーヌ、四十歳くらいの自称元商人ヴォートラン、パスタの製造業者だったゴリオ爺さん、などなど。

 

学生が入る部屋がありましたが、お金の払いが悪い上に入れ替わり立ち替わりするので、そこに入る貧乏な学生は「渡り鳥」と呼ばれていました。その時そこに入っていたのは、ウージェーヌ・ド・ラスティニャックという青年。

 

ゴリオ爺さんは、美しく着飾った若い女性たちと会っているのを何度も目撃され、下宿屋のみなは愛人を何人も囲っているのではないかと噂します。やがて、ゴリオ爺さんの着ている物は次第に貧相なものになっていき、下宿屋の部屋も安いところへと代わったのでした。

 

ある時、うめき声が聞こえたので心配になったラスティニャックが鍵穴をのぞくと、ゴリオ爺さんは立派な銀の皿を力ずくで塊へと変えているところでした。盗品売買をしているのかと疑いますが、ゴリオ爺さんが「かわいそうな子だ!」(53頁)と口にしていたのが不思議です。

 

貧しいながらも貴族の血を引き、社交界での華々しい成功を夢見ている青年ラスティニャックは、親戚縁者のつてをたどってボーセアン夫人と知り合いになりました。そしてボーセアン夫人と、そこを訪ねて来たランジェ公爵夫人からゴリオ爺さんにまつわる驚くべき事実を聞かされます。

 

ゴリオ爺さんは元々は金持ちで、長女はレストー伯爵、次女はニュシンゲン男爵という銀行家に嫁がせました。しかし二人の娘は、夫には知られたくない自分たちの喜びのために、なにかと言えば父親にお金を要求し、ゴリオ爺さんはそのためにどんどん貧しくなっていったというのです。

 

「娘たちは父親を見捨てたのですか」とウージェーヌは繰り返した。
「ええ、そうなのよ、自分たちの父親を、父というものを、一人の人間を」とボーセアン夫人が答えた。「人の話によると、とてもいいお父さんで、娘に立派な結婚をさせて幸せにしようと、それぞれに五、六十万フランも分けてあげて、自分には八千から一万フランの利子収入しか取っておかなかったのですって。娘たちはいつまでも自分の娘だと信じて、娘たちのそれぞれの嫁ぎ先に、自分が愛され大事にしてもらえる二つの生活、二つの家ができたと思っていたのね。ところが二年も経つと婿たちは、とんでもなく卑しい人間かなにかのように、父親を交際仲間からはじき出してしまったの」
 ウージューヌの目に涙がいく粒か浮かんだ。ついこのあいだ帰省して、家族の清く神聖な愛情で心を洗われたばかりだったし、心はまだ若々しい信念にあふれていた。それに今日は、パリ文明の戦場での初陣の日だった。本物の感動は伝わりやすいものだから、しばらく三人は黙ってお互いの顔を見つめ合っていた。(109~110頁)

 

謎めいた男ヴォートランは、ラスティニャックに驚くべき犯罪計画を持ちかけます。同じ下宿屋にいる娘ヴィクトリーヌはタイフェール家の血筋で、ヴィクトリーヌと結婚すれば莫大な財産を手に入れられる可能性があるというのです。

 

ただし、タイフェール家の跡継ぎである一人息子さえいなくなれば……と。ヴォ―トランの悪魔の誘惑をはねのけたラスティニャックは、家族にお金の送金を頼んで身なりをととのえ、社交界での輝かしい成功を手にするため、ゴリオ爺さんの娘であるニュシンゲン夫人に近付くのですが……。

 

幻滅 抄(野崎歓訳)

 

恋愛のスキャンダルによって恋人のバルジュトン夫人とパリへ向かった青年リュシアン・シャルドン。しかし、恋人とはすぐにうまくいかないようになり、また、文筆で身を立てようとしますが、なかなか道は開けません。

 

一方、リュシアンの妹エーヴと結婚した学友のダヴィッド・セシャールは紙の製造に関する新しい技術開発に没頭し、本業の印刷所の仕事をおざなりにしてしまいます。そしてやがては負債を抱えて、身を隠さざるをえなくなってしまったのでした。

 

パリから帰郷し、なんとかダヴィッドの窮状を助けたいと思ったリュシアンは、元バルジュトン夫人、現在はシャトレ伯爵夫人となっているかつての恋人の力を借りて、ダヴィッドの借金を帳消しにすることに成功した、そう思われたのですが……。

 

浮かれ女盛衰記 第四部――ヴォートラン最後の変身(田中未来訳)

 

自らが見出した若き美青年と組んで、自分は裏方にまわる形でパリの社交界と政治界を席巻しようと企んだヴォ―トラン。しかし思いがけないことで失敗して投獄され、相棒の青年を失い、大きな衝撃を受けます。

 

 実生活、つまり社会において、何であれ物事は不可避的に他の物事と連鎖しており、独立では発生し得ない。大河の水は平らな板の様相を呈するものだが、これというのは、どんなに荒くれた波も、どんなに高く跳ね返る飛沫も、必ず全体の大きな流れによって押し潰されてしまうからだ。流れのうちに逆巻くどんな渦よりも、流れ全体のほうが圧倒的に重く、速い。流れの中に押し隠された水面下の動きを見るように、ヴォートランというこの渦巻きの上に権力がどう圧し掛かってくるのかをご覧になりたくはないか? この跳ねっ返りの荒波が果たしてどこまで頑張れるのかを、真に悪魔的でありながらも確かに人間的な〈愛する心〉を持ったこの男の命運がどのようにして尽きるのかを、見届けたくはないか? いやまったく、愛という天上の原理は、堕落した心のうちにもこうまでしぶとく息づいているものなのだ!(510頁)

 

スペイン人神父に変装したままヴォートランは捕まっているのですが、判事たちからはその正体を疑われており、また監獄に収監されている仲間たち〈テッテ鳥〉〈絹ノ糸〉〈牡屑屋〉との再会は、大きな危険が伴います。

 

というのも、〈死神だまし〉として尊敬されていたヴォートランは、悪党仲間によって結成された〈大朋連(だいポンれん)〉の資産の管理を任されていたのですが、その資産は、今や頓挫した大いなる計画のために既に使い込んでしまっていたから。

 

そんな中、〈テッテ鳥〉から、「マドレーヌはもう土手の隠し場に行く化粧まで澄ましてるんだぜ(グレーヴ広場[当時の公開処刑場]に送られるのを待つばかりだ)」(555頁)と、昔の相棒テオドール・カルヴィが捕まり、死刑宣告をされていることを符丁(合言葉)で聞かされます。

 

相棒を失ったばかりのヴォートランは、テオドールの命を救うことを決意し、そのための起死回生の策を練り始めますが、ますます厳しくなっていく判事、そして〈大朋連〉の面々からの疑いの眼差し。のるかそるか、ヴォートラン一世一代の大博打の結末ははたして!?

 

とまあそんな三編が収録されています。「浮かれ女盛衰記」の引用の部分でなんとなく分かってもらえたかと思いますが、バルザックの文章は慣れれば大丈夫なんですけど、重厚というかなんというか、決して読みやすくはないんですよね。

 

なので、今バルザックを進んで読もうと思う人って、本当に少ないと思うんですけど、キャラクターやストーリーにめちゃくちゃ魅力があるんですよ。それは今回のあらすじ紹介だけでも分かってもらえたのではないかと思います。

 

そして、バルザックの文学的な評価が高いその理由として、とりわけ人物造形の面で、多義的な読み方ができるということがあります。

 

ヴォートランは一言でいえば悪党なわけですが、そこには彼なりの思想があるわけで、単純な悪じゃないんですよ。単なる悪役としての役割の範疇は大きく越えていて、その台詞、立ち回りにはずば抜けた魅力があります。

 

また、野崎歓による「解説」に詳しいですが、自分自身は女性を近付けないこと、犯罪の相棒として必ず美しい青年を選ぶことから、同性愛者ではないかという読み方も可能で、そんな風に、「ヴォートランとは何者なのか?」という問いの答えは、読み手によって変わってくるのです。

 

今回、そうしたバルザックの人物造形の巧みさ、深さにかなり心打たれまして、今までさほど「人間喜劇」には興味がなかったのですが、この面白さはもう、どんどん色んな作品を読んでいかないといけないと強く思いましたね。そんな風に思わせてくれた、とてもいい一冊です。