ポケットマスターピース06『マーク・トウェイン』 | 文学どうでしょう

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ポケットマスターピース06(柴田元幸編)『マーク・トウェイン』(集英社文庫ヘリテージシリーズ)を読みました。

 

マーク・トウェインは、おそらく多くの方が知っている作家であり、その代表作『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』もまた、よく知られていると思います。ですが、子供向けの児童文学というイメージが強いのではないでしょうか。

 

なので、ちゃんと読んだことがあるという方は、実は意外と少ないのではないかと思います。しかし、とりわけ『ハックルベリー・フィンの冒険』がそうなのですが、現在ではアメリカ文学史的に重要な作品とされています。

 

口語を使った文章表現の新しさや、作品のテーマである宗教的なジレンマ(逃亡した黒人奴隷であるジムを助ければ地獄行きになってしまうが故に、ハックルベリー・フィンはどうするべきか心迷うのです)が高く評価されると共に、黒人に対する表現をめぐっては今なお様々な議論を呼んでいます。(禁書になったり、言葉が書き換えたりすることも)

 

そうしたマーク・トウェインのアメリカ文学史的な評価の移り変わりや、表現の問題がもたらした様々な事柄について、編・訳をつとめた柴田元幸の詳しい解説がこの「ポケットマスターピース」には収められているので、そうした解説の部分だけでも、この本は読む価値があると思います。

 

さて、この巻『マーク・トウェイン』に収録されているのは、まず、「トム・ソーヤーの冒険」の全訳。こちらは2012年に出版された新潮文庫の訳が元になっているとのこと。それから「ハックルベリー・フィンの冒険」の抄訳(一部分)。こちらは本当に一部分だけという感じです。

 

学校にまともに行っていない少年ハックルベリー・フィンの独特の喋り方にあわせた、平仮名が多い、やや実験的な訳なのですが、後に研究社から柴田元幸による全訳『ハックルベリー・フィンの冒けん』が出版されているので、そちらもいつかちゃんと読んでみたいですね。

 

 

「阿呆たれウィルソン」も全訳。これは科学的なアプローチが取られた、言わばミステリの先駆け的な作品で、ストーリーが抜群に面白くて引き込まれました。こういう状況に置かれたら人はどうなるのかという、思考実験的な部分もあって、色々と考えさせられることが多かったです。

 

また、「赤毛布外遊記」「西部道中七難八苦」「ミシシッピ川の暮らし」「戦争の祈り」など、記者時代の旅行レポやエッセイなども収められており、マーク・トウェインの作家以外の一面も垣間見ることができます。こういう雑多な感じもまた、文学全集の醍醐味を感じられていいですね。

 

作品のあらすじ◆

 

トム・ソーヤーの冒険(柴田元幸訳)

 

両親を亡くし、ポリー伯母さんの元で育てられているトム・ソーヤーは腕白で、いつもポリー伯母さんを困らせています。親友のジョー・ハーパーや浮浪児のハックルベリー・フィンと夢中になって遊ぶのは海賊ごっこ。

 

「黄色い髪を長いお下げに編んで、白い夏物のスモック、刺繍を施したパンタレットという装い」(35頁)をした可愛らしい女の子ベッキー・サッチャーが引っ越してきて、同じ学校に通うようになり、トムは夢中になります。

 

ある夜、トムはこっそり家を抜け出して、猫の死骸を持ってきたハックルベリー・フィンと合流すると、墓場に向かったのですが、そこでインジャン・ジョーとマフ・ポッター爺さんの二人が医師と揉めているのを見かけました。

 

ポッター爺さんが墓標で殴られて意識を失っていた時に、インジャン・ジョーはナイフで医師を刺し殺します。凶器として使われたナイフが自分のものだったため、ポッター爺さんは自分が殺したのだとインジャン・ジョーに思い込まされてしまいました。

 

やがてポッター爺さんが殺人の容疑で捕まり、真実を言ってポッター爺さんの容疑を晴らしてやりたいけれど、このことは誰にも喋らないとハックルベリー・フィンと誓いを立てたし、何よりインジャン・ジョーが恐ろしいので、良心にさいなまれたトムは眠れぬ夜を過ごします。

 

そんな中、ポリー伯母さんと揉めてしまい、思いを寄せるベッキー・サッチャーにも冷たくされて絶望したトムは、母親に無実の罪で鞭打たれて憤慨していたジョー・ハーパーと出くわし、ハックルベリー・フィンを誘って三人で家出をすることにしました。

 

夕食にベーコンをフライパンで焼き、モロコシパンを食べ、文明を捨てた野蛮人として愉快に楽しく過ごしますが、夜が明けると、川で奇妙な音が鳴っていることに気付きます。甲板に人をたくさん乗せた小さな蒸気の渡し船が大砲を撃っているのです。

 

どうやら溺れた人を探しているようでした。トムははっと閃きます。「おい分かったぞ、誰が溺れたか――俺たちだ!」(144頁)自分たちが川で溺れて死んだと思われていることに気付いたトムは、面白いことを思いついて……。

 

ハックルベリー・フィンの冒険 抄(柴田元幸訳)

 

浮浪児だった〈おれ〉ハックルベリー・フィンは、ダグラス未ぼう人に引き取られ、理解できない作法などに苦しみながらもまともな暮らしを送れるようになりました。しかし、そこへ飲んだくれのおやじが戻って来ます。

 

自分よりいい暮らしをし、文字が読めるようになったのが気に食わないおやじに〈おれ〉はボートで連れ去られ、岸辺の小屋に閉じ込められてしまいました。〈おれ〉は小屋にブタの血、川までの地面には引きずった跡を残して逃亡します。

 

しばらくの間パドルを漕ぎながらカヌーで旅を続け、夜になったので島に上陸したある時のこと。森の中で火が見え、横になっている男がミス・ワトソンの黒人奴隷ジムだと分かった〈おれ〉は喜びますが、ジムはびっくり仰天。

 

「よう、ジム!」とおれは言いながらとびだしていった。
 ジムはとびあがって、ギラギラひかる目でボーゼンとおれを見ていた。それから、ひざまずいて手をあわせ、こう言った――
「いたい目にあわせないでくれ――たのむ! おれユウレイにわるさしたこといっぺんもねえよ。死んだ人たちはおれいつだってすきだったし、できるだけのことはしてやったよ。あんたも川にもどってくれよ、あそこがあんたのい場しょだよ、このジムになんにもしねえでくれよ、おれいつもあんたのともだちだったろ」
 おれが死んでないってことをジムになっとくさせるのはそんなにたいへんじゃなかった。ジムにあえておれはほんとうにうれしかった。もうさみしくなかった。おまえがおれのい場しょみんなにしゃべったりするわけないもの、とおれはジムに言った。なおもペチャクチャおれはしゃべったけど、ジムはただじっとおれを見ていた。(383頁)

 

主人であるミス・ワトソンの元に奴隷商人がよく顔を出すようになって、自分を八百ドルでオーリアンズに売るつもりだという話を偶然立ち聞きしてしまい、思わず逃げ出したのだとジムは言います。〈おれ〉とジムは追っ手を怖れながら、一緒に旅を続けることとなって……。

 

阿呆たれウィルソン(中垣恒太郎訳)

 

1830年頃、質素な木造の平屋や二階建てが集まったこぢんまりとした町ドーソンズ・ランディング。ドリスコル家に子供が産まれますが、夫人はすぐに亡くなってしまいます。

 

そのため、見た目では分かりませんが、黒人の血が流れている奴隷のロキシーは、自分の赤ん坊とご主人の赤ん坊の両方の面倒を見なければならないことになったのでした。

 

そんな中、町に新しくやって来たのが、薄茶色の髪をした、そばかすの多い、スコットランド系の青年デイヴィッド・ウィルソン。法学をおさめた前途有望な若者でしたが、不用意な一言で輝かしい将来を失ってしまいます。うるさい犬の声を聞いた時のことでした。

 

「あの犬の半分が僕のものだったらなあ」
「どうしてだい?」誰かがたずねた。
「僕がもっている方の半分を殺してやれるからさ」
 その場に居合わせた者たちは好奇の目で彼を見つめ、不安すら覚えたのだが、誰一人その真意を読みとることはできなかった。気味の悪いものから離れるようにしてウィルソンのもとを立ち去ると、内輪だけで彼について論じはじめた。
「どうやら、馬鹿のようだな」一人が口火を切ると、
「どうやら、じゃないだろう」別の一人が応じて答えた。「馬鹿そのものだよ、ありゃ」(430頁)

 

それ以来、「阿呆たれ」がウィルソンのあだ名となってしまい、弁護士の看板を出したものの法律相談には誰も来てくれず、他の仕事をしながら細々と暮らすしかなくなってしまったのです。

 

なにしろ暇な時間がたくさんあるので、手相と指紋の研究に没頭することとなったウィルソン。上着のポケットにはいつも、長さ五インチ幅三インチほどのガラス板が入った薄い箱を入れておき、町の人に会うと指紋を取らせてもらうのでした。

 

ある時、ドリスコル家で窃盗が起き、犯人である奴隷が売られていったことによって、黒人奴隷はいつひどい環境に売り飛ばされてもおかしくないということを改めて認識したロキシーは、あることを思い付きます。

 

自分の赤ん坊とご主人の赤ん坊を入れ替えても、誰も気が付かないのでは?

 

自分の息子の明るい未来を願って、ロキシーは自分の赤ん坊とご主人の赤ん坊の服を取り換え、誰にも気付かれることなく二人を入れ替えることに成功します。子供たちは入れ替わった身分のまま、成長を遂げていったのですが……。

 

赤毛布外遊記 抄(柴田元幸訳)

 

豪華客船クェイカー・シティ号に乗って、ヨーロッパなどの聖地巡礼をしたツアーの旅行記の一部。一生懸命なガイドに、みんなでわざと馬鹿なふりをして、どれを見てもミケランジェロ作かと尋ねたりします。

 

西部道中七難八苦 抄(柴田元幸訳)

 

西部での体験を元にした旅行記の一部。「コヨーテこそは欠乏の生きた寓話にほかならない。彼はつねに腹を空かせている。つねに貧しく、運に見放され、友もいない」(668頁)と、奥地の砂漠に住むコヨーテの姿が描写されています。

 

ミシシッピ川の暮らし 抄(柴田元幸訳)

 

故郷ミシシッピ川を中心に、南部のことを紹介していくエッセイの一部。子供の頃のみんなの何よりの夢は、蒸気船乗りになることだったこと、最初に機関士見習いになった少年へのねたましい気持ちなどが回想されています。

 

戦争の祈り(柴田元幸訳)

 

雑誌に寄稿するも掲載を拒否されたため、死後に出版された本に初めて収録されたエッセイ。国中が愛国心に燃える中、一人の老いた見知らぬ者が現れて、牧師をわきへのけさせ、一つの祈りは、相反した他の祈りとともに神へと届いてしまうと言います。

 

雨を必要としているお前たちの作物に雨の祝福が訪れるよう祈るなら、その祈りは、誰かお前たちの隣人の、雨を必要としておらず雨によって損なわれるかもしれぬ作物に呪いが訪れるよう求める祈りともなりうるのだ。(686頁)

 

「我らに勝利を与えたまえ、おお主なる神よ!」(686頁)と祈ることは、同時に言葉にされていない祈りをも神に届けると言い、男は祈りの裏にある残酷な真実を次々と口にしていって……。

 

とまあそんなお話が収録されています。「昼行灯(ひるあんどん)」という言葉がありますが、昼に明かりをつけても意味がないように、ぼんやりした人のことを指します。

 

そんな風に、昼行灯だと笑われている人が実は切れ者で、意外な活躍を見せるという展開、ぼくかなり好きなんですよ。というか、これは嫌いな人はいないんじゃないでしょうか。

 

「阿呆たれウィルソン」のウィルソンは、失言で町の人たちから「阿呆たれ」というレッテルを貼られてしまうのですが、実はアフォリズムというか箴言(しんげん)というか、ピリリと皮肉がきいた一言、みたいなのが得意な人んですよ。

 

たとえば、「十月。株に手を出すには特に危険な月だ。他の月では七月、一月、九月、四月、十一月、五月、三月、六月、十二月、八月、それから二月」(540頁)とか。ちょっと考えた後にふふっとなるような感じのやつ。

 

だから元々ユーモアのある切れ者なんですけど、ずっとまわりからは理解されずに来たわけです。物語の後半に、ある殺人事件が起こり、「阿呆たれ」と笑われてきたウィルソンが、被告側の弁護士として法廷に立つこととなります。

 

一種の倒叙もののようになっているので、誰が犯人で、どのように殺人が行われたか、読者には明かされています。つまり、無実の者が殺人の罪を着せられているのに、ろくに弁護士の経験のない、町中みんなから笑われている人物が弁護に立つというシチュエーション。

 

この展開はもう面白くないわけがなくて、他の作品はわりとすでに知っていて、これは初めて読んだからということもありますが、「阿呆たれウィルソン」は、かなり夢中になって読みました。非常に面白かったです。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。