レイモンド・チャンドラー『高い窓』 | 文学どうでしょう

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レイモンド・チャンドラー(村上春樹訳)『高い窓』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読みました。

 

私立探偵フィリップ・マーロウものの長編第三作であり、村上春樹による翻訳では五作目の刊行となったのが今回紹介する『高い窓』。資産家の未亡人の家から消えた金貨をめぐる物語で、ミステリとしてのロジックもかなり面白い作品です。

 

ハードボイルドの元祖と言われる、ダシール・ハメットの『マルタの鷹』など、私立探偵の主人公がいつの間にか宝をめぐる陰謀に巻き込まれるというのはハードボイルドの鉄板ネタというか、消えた宝とハードボイルドテイストの要素は相性がいいので、物語として面白いですね。

 

 

今回紹介する『高い窓』に登場する宝は、ブラッシャー・ダブルーンという金貨。サイズは50セント硬貨とだたい同じで、20ドル分の金の塊と同価値ですが、鋳造所でではなく、民間人の金細工師によって作られていることに価値があります。

 

 私は煙草を口にくわえ、火をつけた。黴臭い匂いを少しでも消したいと思ったのだ。
「その圧力鋳型工程というのはなんですか?」
「鋳型の半分ずつを鉄に彫るのです。もちろん沈み彫りでです。それら半分ずつの鋳型が鉛の台に据え付けられます。そこに金の地金を挟み、コイン・プレスで圧力をかけます。それから重量を揃えるために、はみ出た縁が削り取られます。ぎざぎざはつけられません。そのための機械は一七八七年には存在しませんでしたから」
「作るのにずいぶん手間がかかりそうだ」と私は言った。(96頁)

 

コインはなんでもそうだと思いますが、流通しておらず、きれいな状態が保たれているもののなら価値は特に高く、特殊な製法で作られたこの金貨は、未使用品のものならもし市場に出回れば、一万ドル以上の価値があるとも言われています。

 

主人公の私立探偵フィリップ・マーロウは依頼を受けて、消えた金貨の行方を追いますが、金貨をめぐって思いがけない出来事が次々と起こっていき、マーロウはそのごたごたに巻き込まれていくこととなるのです。

 

作品のあらすじ

 

赤葡萄酒色の煉瓦(れんが)塀が巡らされたお屋敷で暮らすミセス・エリザベス・ブライト・マードックに呼び出された私立探偵の〈私〉フィリップ・マーロウは、取り次ぎのために玄関で長い間待たされます。

 

〈私〉は、通路の終わりにある黒人の少年の像の頭を軽く叩きました。「あまりに長く、来ない客を待ち続け、さすがに気落ちした」(6頁)かのような、どことなく悲しげなその姿に自分を重ねて共感したから。

 

まず秘書が様々なところに電話をかけて人物の照会がされた後に、ようやくミセス・マードックとの面談が許された〈私〉は、今回依頼する件は、警察など外部には知られたくない内密の調査であることを告げられます。

 

「お金のことはべつに重要ではありません」と彼女は言った。「私のような立場の女は常に料金を吹っかけられるし、それが当たり前になっています。私としては、あなたにその料金に相応しいだけの能力があると思いたいところね。状況を説明しましょう。ずいぶん値打ちのあるものが盗まれ、それを取り戻したいのです。でもそれだけじゃない。私としては、誰かが逮捕されるようなことを望んではいません。盗んだのはうちの家族の一員だからです。血のつながりはないけれど」
 彼女は太い指でグラスを回転させ、光を遮られた部屋の乏しい明かりの中で、僅かに微笑んだ。「私の義理の娘なの」と彼女は言った。「見かけはチャーミングだけど、実は樫板のようにタフな女よ」(18頁)

 

屋敷から消えたのは、ミセス・マードックの亡くなった夫がコレクションしていたブラッシャー・ダブルーンという金貨で、その特殊な製法から、一万ドル以上の値がつくとも言われている、非常に珍しいものでした。

 

古銭商から、金貨が売りに出されているかどうかの問い合わせがミセス・マードックの元にあり、調べたところ、貴重な金貨は、二階の施錠された防火造りの部屋のケースからいつの間にかその姿を消していたのでした。

 

外部から泥棒が屋敷に侵入した形跡はないため、誰か身内のものが自分のバッグから鍵を盗んで金貨を奪い、また鍵をバッグに戻しておいたのだろうとミセス・マードックは考えており、一番疑わしいのが息子レスリーの妻、リンダでした。

 

元々はナイトクラブの歌手であったリンダは金遣いが荒く、最近ではレスリーとうまくいっておらず、屋敷を離れています。リンダから盗まれた金貨を取り戻し、レスリーと円満に(すなわち慰謝料などもなく)離婚させたいというのが、ミセス・マードックの願いです。

 

ミセス・マードックに連絡をしてきた古銭商に接触して、消えた金貨の行方を探しつつ、同時にリンダが今どこで何をしているのかを調べ始めた〈私〉は、自分のことを尾行している男がいることに気付きました。

 

わざと男の前に姿を現すと、男は私立探偵のジョージ・アンソン・フィリップスだと名乗り、「話を持っていくだけの値打ちがあんたにあるかどうかをはかっていたんだよ」(84頁)と言い、自分の手には負えない事柄についての相談を持ちかけてきたのでした。

 

用事をすませた後に、フィリップスのアパートメントで落ち合って詳しい話を聞く約束をします。もし遅れたら先に中に入っていてくれと言われて鍵を預かった〈私〉は、約束の時間より少し早くアパートメントに着きました。

 

フィリップスの部屋の真向かいでは、ラジオの野球中継が大音量で鳴り響いています。ノックをしたけれど返事がなかったので、鍵を使って部屋の中に入ると、フィリップスは浴室で頭を撃ち抜かれて殺されていたのでした。

 

警察の取り調べを終えて自分のオフィスに帰った〈私〉の元に、電話がかかってきます。不吉な感じのベルの鳴り方であり、静まり返った暗闇の中で揺らぎなく、力強く鳴り続けた電話を取ると、すぐに切れてぶーんといううなりになりました。

 

 再び電話のベルが鳴った。私は喉の奥で小さく唸り、受話器をもう一度耳にあてた。一言も発しなかった。
 双方が沈黙を守った。二人の間には何マイルもの距離があるのだろう。どちらも受話器を握り、息を殺して耳を澄ませている。でも何も聞こえない。息づかいの音さえ。
 ひどく長い時間が経ったような気がした。遥か遠くでこっそりとした囁きが聞こえた。その声は不明瞭で、抑揚を欠いていた。
「気の毒したな、マーロウ」
 そして再び電話が切れた。ぶーんといううなり。受話器を置くと、私はもう一度部屋を横切って外に出た。(148頁)

 

フィリップスの死体の発見者として警察に目をつけられ、謎の脅迫者からの圧力を感じながらも、リンダとかかわりのあるナイトクラブなど、調査を諦めない〈私〉ですが、やがて新たな殺人事件が起こって……。

 

はたして〈私〉はリンダを見つけ出し、消えた金貨を取り戻すことはできるのか? そして消えた金貨の事件の裏に隠された、驚くべき真相とはいかに!?

 

とまあそんなお話です。お金持ちというのは、普通に考えたら幸福ですよね。ですが、見かけと同じように何もかも完璧で幸福ならば、そこから宝物が消えるなんてことは起こらないはずで、完璧に見えるものから腐敗臭というか、内部の崩れが垣間見えるのがこの作品の面白いところ。

 

普通そうでいて、どこかエキセントリックな部分がある人物を描くのがレイモンド・チャンドラーは抜群にうまくて、調査のために出会う人々それぞれにすごく特徴があって、そうした独特の人物描写が普通のミステリとは一線を画する、チャンドラーのハードボイルドならではの魅力だろうと思います。

 

『高い窓』は消えた金貨をめぐるミステリのロジック的にも面白い小説なのですが、事実を淡々と積み重ねて書くことに特徴があるハードボイルドは、今何が起こっているか分からないまま物語が進んでいくことが多く、そういう点では、普通のミステリのような楽しさはないかもしれません。

 

それでも後から、ああ、そうだったのか! と謎が解けた時の快感みたいなものがしっかりとある小説で、その感じはフィリップ・マーロウものの中でもピカ一なんじゃないでしょうか。そういう意味ではミステリ的な面白さもしっかりとある一冊なので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。