アリー・コンディ『カッシアの物語』 | 文学どうでしょう

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カッシアの物語/プレジデント社

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アリー・コンディ(高橋啓訳)『カッシアの物語』(プレジデント社)を読みました。

以前、ロイス・ローリーの『ギヴァー 記憶を注ぐ者』という作品を紹介したことがあります。誰もが幸せに暮らせる近未来社会が舞台ながら、次第に、失われてしまった大切ななにかに気付いていく物語。

ギヴァー 記憶を注ぐ者/新評論

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理想郷を「ユートピア」と言いますがそれとは逆にあってほしくない世界が「ディストピア」。まるで天国のような理想郷に見えながら実は地獄のような世界だったという物語が「ディストピア」ものです。

色々おすすめの作品もありますが、詳しくは「ディストピア」の記事を参照していただくことにしまして、その『ギヴァー』の世界観を引き継いでいるような作品が、今回紹介する『カッシアの物語』です。

すべてが〈ソサエティ〉によって管理されている、平和で誰もが幸せな未来世界が舞台。就職も結婚相手も、色々なデータを元に〈ソサエティ〉が最適な選択をしてくれるので、何も悩む必要はありません。

不安な時、辛い時に飲んで心を落ち着かせる錠剤を誰もが持っているので、日常で感じる苦しみもなく、死ぬのも80歳と決まっているので、誰もが親しい人に囲まれて穏やかな死を迎えることが出来ます。

物語の主人公はカッシア・マリア・レイズという17歳の少女。結婚相手が発表される〈マッチ・バンケット〉で自分の結婚相手が親しい幼馴染のザンダー・トーマス・カロウだと分かり、喜んでいました。

ところがカッシアの心を大きく動かすいくつかの出来事が起こり、結婚相手や死の問題、進むべき道は自分で選択すべき事柄なのではないかと思い始め〈ソサエティ〉のあり方に疑問を抱くようになり……。

というお話で「ディストピア」ものとヤングアダルト(中学生、高校生向け)小説の要素とを巧みに融合させた一冊。すべてが管理されている独特の世界観ながら、主人公にとても共感しやすい作品でした。

日常生活を送っていて「こんな風だったらいいのになあ」と不満を感じることは誰しもあるだろうと思います。就活や婚活の辛さや苦しみは度々ニュースになりますし、病気がなければいいと思いますよね。

『カッシアの物語』の社会は、そういった点ではぼくらが望む幸せな世界以外の何物でもありません。就活や婚活もなければ病気もなく、誰もが長生き出来て、日常のイライラも薬で解消出来るのですから。

そんな理想的な未来世界を描きながら、その世界が失ってしまった大切なものに気付いていく物語なので、これはもう面白くないわけがありません。ストーリーに引き込まれて、考えさせられる一冊でした。

まだ二巻までしか翻訳は刊行されていませんが本来は三部作で、どうなるかまだ分かりませんがディズニーで映画化の話もあるようです。

作品のあらすじ


〈わたし〉カッシアは家族や幼馴染のザンダーと、エア・トレインに乗っていました。結婚相手が決まる宴〈マッチ・バンケット〉に向かうためです。一体どんな相手が選ばれるのかどきどきしていました。

市民は一つだけ過去の人工遺物を持つことが許されています。〈わたし〉はおじいさんのお母さんの持ち物だった「コンパクト」という人工遺物のフタを落ち着かない様子で開けたり閉めたりしていました。

化粧をするためのパウダーが入っていたという部分に誰もが持ち歩いている緊急用の緑と青と赤の錠剤をしまっています。ザンダーが持っている人工遺物は、きらきらと輝くプラチナのカフスボタンでした。

やがて〈マッチ・バンケット〉が始まり、一人一人相手がスクリーンに映し出されます。ようやく〈わたし〉の番が来ました。しかし、画面は真っ暗なまま。つまりこの場にその相手がいるということです。

紹介されたのはザンダーでした。お互いのことをよく知っている〈わたし〉とザンダーはこの幸運を喜びます。結婚が決まった相手には、それぞれの情報が書かれたマイクロカードが渡される決まりでした。

〈わたし〉がマイクロカードをポートに挿入すると、ポートスクリーンにザンダーの写真が浮かび上がります。ところが、画面から写真が消えると、結婚相手として別の少年の顔が浮かび上がったのでした。

やがて婚姻省に所属する役人がやって来て、情報処理の不具合があった、恐らくは誰かのいたずらによるエラーだと思う、あなたの相手はザンダーで間違いないと言って、新しいマイクロカードをくれます。

〈わたし〉が画面に出て来た少年、カイ・マーカムのことを知っていたので、役人はやむをえずカイの話をします。カイは父親の〈違反〉により市民とは違う〈逸脱者〉(アベレイション)の身分なのだと。

そのため、そもそもカイは結婚希望者のグループに入ることすら出来ないはずなのでした。カイこそが本当の自分の結婚相手なのではないかと〈わたし〉は思うようになり、カイのことが気になり始めます。

おじいさんが80歳になりました。〈ファイナル・バンケット〉という宴が開かれ、親しい人が集まって別れを告げ、その人は穏やかな死を迎えます。研究の結果人は80歳の死が一番いいと分かったから。

みんながプレゼントを送る決まり。〈わたし〉は手紙を渡しました。

「じつにすてきな言葉と洗練された決まり文句が並んでいるね」
 その言葉に感謝すべきだけど、次にもっと大切な言葉が続くことがすぐにわかった。
「でも、おまえ自身の言葉がひとつもないよ、カッシア」おじいさんは優しく言った。
 涙にかすむ目を伏せて、自分の手を見た。このソサエティに生きる人のほとんどがそうであるように、わたしの手は自分の言葉を書くことができない。知っているのは他人の言葉を使い回すことだけ。おじいさんをがっかりさせるような言葉しか知らない。わたしもブラムのように石でも拾ってくればよかった。あるいは何も持ってこないか。おじいさんをがっかりさせるくらいなら、手ぶらで来ればよかった。
「おまえはおまえ自身の言葉を持っているんだよ、カッシア」とおじいさんは言った。「その一部はすでに聞いたことがあるし、じつに美しい言葉だったよ。それに、ここに来てくれたことで、すでに贈り物はもらっているんだよ。この手紙は、おまえからのものだから、それだけでもう十分なんだよ。おまえの気持ちを傷つける気はまったくないんだ。ただ、おまえには自分自身の言葉を信じてほしいだけなんだよ。わかるね?」(113ページ)


エア・トレインの中でつかんだポプラの綿毛の種をポケットに入れていたことを思い出したのでおじいさんに渡すと喜んでもらえました。

おじいさんは〈わたし〉にコンパクトを出させると、底から厚ぼったいクリーム色の紙を取り出してみせます。ポートや書き込み装置(スクライブ)から出て来るすべすべした白い紙とはまるで違いました。

そこには今は使われなくなった活字で詩が書かれています。「いつかおまえは理解するよ。おまえは秀でたものを持っている。疑問を持つことはいいことだよ」(116ページ)と言ってくれたおじいさん。

登山プログラムで山登りをした時に、森の中でコンパクトから詩を取り出して読みましたが、その様子をカイに見られてしまいます。〈わたし〉がおじいさんを失って、悲しんでいることに気が付いたカイ。

持ってはいけないものを持って、そこに書かれた古い時代の詩を愛する〈わたし〉の秘密を共有したことで、謎めいたカイとの距離が近付いていきます。カイが文字を書けることに〈わたし〉は驚きました。

カイにこっそり文字の書き方を習うようになり、カイの秘められた過去に関心を抱き、惹かれていってしまった〈わたし〉。カイのことを考えていると、母はザンダーのことを考えていると思い込みました。

 母はわたしの心を見透かしたような笑みを浮かべている。「わたしだって、結婚する前はいつもお父さんのことを夢見ていたもの」
 わたしもほほみを返す。じつは間違った男の子のことを考えていると正直に答えたところでどうにもならない。いや、間違った男の子なんかじゃない。カイは〈逸脱者〉の烙印を押されているかもしれない、でも彼自身には何の欠陥もない。間違っているのは、わたしたちの政府であり、その身分制度であり、この社会のすべての制度だ。結婚制度も含めて。
 でも、制度が間違っていて、偽物で、不自然なものだとしたら、両親の愛はどういうことになるのだろう? 二人の愛が〈ソサエティ〉によって生まれたものであったとしたら、嘘偽りのない、正しい愛でありつづけることができるのだろうか? この疑問がどうしても頭から去っていかない。もちろん、その答えはイエスであってほしいと思う。父と母の愛は真実であってほしい。何ものにも依存しない美しさと真実を持っていてほしいと思う。
(295~296ページ)


知らないことはなにもなく、心から信頼出来、安定した愛情をお互い与えあえるザンダーとの関係に、何も不満はありません。ところがカイのことを知れば知るほど、カイに惹かれていってしまうのでした。

ザンダーとカイの間で揺れる〈わたし〉は大きな危機に直面し……。

はたして、〈わたし〉を待ち受けていた、思いがけない運命とは!?

とまあそんなお話です。安定した幸せな生活が約束されている代わりに、不確定な要素やいらないと考えられたものがすべて排除された近未来社会。自由な発想や選択の意志が封じられた世界でもあります。

定められたおじいさんの死、元々は外で暮らしていたカイから聞いた話からカッシアは、社会のあり方そのものについて、疑問を抱いていくことになります。難しいテーマを青春小説のタッチで描いた一冊。

世界観やテーマが興味深いだけでなく、ラブロマンスの要素も面白いので、500ページほどのやや長い小説ながら、ぐいぐい読み進められます。興味を持った方はぜひ読んでみてください。おすすめです。