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ナサニエル・カヴァリー(栩木玲子訳)『女水兵ルーシー・ブルーアの冒険』(松柏社)を読みました。「アメリカ古典大衆小説コレクション」の一冊です。
面白いか面白くないかで言ったら面白くはないのですが、実に興味深い一冊が『女水兵ルーシー・ブルーアの冒険』でした。面白くない理由は明らかで、小説ではなく、実録の形式で書かれているからです。
本当にあった出来事だという手記の形式で書かれているので、ストーリー的な起伏やはらはらどきどきのスリリングさが微塵もない淡々とした作品なんですよ。しかし、とにかく設定が興味深い一冊でした。
主人公というか語り手のルーシーは、ごく当たり前の幸せを願っていた少女でしたが、十六歳の時に少し年上の恋人の子供を妊娠してしまいます。ところが心変わりした相手に逃げられてしまったのでした。
やむをえず故郷を離れたルーシーは騙されて娼婦に身を落としてしまいます。辛く苦しい生活が続いたある時、水夫になることを思い立ち娼館を逃げ出して、男装し、大海原をかけめぐることとなって……。
あらすじだけ聞くとすごく面白そうというか、今なおセンセーショナルな感じを受ける作品ですよね。物語仕立てになっているとまた違ったと思いますが、とにかく淡々としているので、読み手を選びます。
というわけで、物語的な面白さを求める読者にはおすすめ出来ない一冊なのですが、アメリカ文学史に関心のある方には、ぜひ読んでもらいたい作品。何故かと言うと様々なテーマが読み取れる作品だから。
米英戦争を描く歴史的な背景や、人種やジェンダーなどいわゆるカルチュラル・スタディーズの側面で興味深い作品だろうと思いますが、何と言っても、ポストモダン文学の構造をしているのが面白いです。
ポストモダン文学は既存の文学形式を打ち破っているもののことですが、この作品では全三部で語られるルーシー・ブルーアの偽りが、娼館の女主人の語りによって暴かれていくという構造になっています。
読者の前に「真実」として提示されたルーシー・ブルーアの物語が女主人によって覆され、新たな「真実」が浮かび上がるのですが、それが本当かどうかは分からず、結局本当の出来事は分からないのです。
ナサニエル・カヴァリーあるいはその指示を受けたライターによって書き続けられた、この男装の水夫をめぐる一連の作品は、読者の好評を受けて、ある意味ではでたらめに書き継がれていったものでした。
なので、当然ポストモダン文学を意識して書かれたものではないのですが、前作を取り込み、前作の物語を改訂し、増殖させ、新たな物語を生み出すという作業そのものがポストモダン文学的だと言えます。
実録形式なので、物語的なうまみはほとんどない作品なのですが、人種やジェンダーなど文化をめぐるテーマや、そうしたポストモダン文学的になっている物語に関心のある方は、手に取ってみてください。
作品のあらすじ
『女水兵、またはミス・ルーシー・ブルーアの冒険』
第一部 ルーシー・ブルーアの物語
マサチューセッツ州の州都から四十マイルほど離れた、立派な両親の元で何不自由なく過ごしていた〈私〉でしたが、十六歳の時にいくつか年上の男性の誘惑に負け、妊娠した挙げ句捨てられてしまいます。悩んだ〈私〉は、「たとえ自分の命を危険にさらそうとも、やがて私が被るであろう恥や不名誉から両親や友人たちを守らなければならない」(59ページ)と思い誰にも告げず故郷を飛び出したのでした。
ボストンにたどり着いたもののなかなかメイドの仕事が見つからずに困っていた所、ようやく一軒の広い家で迎え入れられます。そこは不思議と娘たちがたくさんいる家。やがて娼館であると分かりました。
みんなは〈私〉に同情しとてもよくしてくれます。出産しましたが、生まれた子供はすぐに亡くなってしまいました。〈私〉は滞在していた間のお金を請求すると脅されて、娼婦に身を落としてしまいます。
そうして、ニグロ・ヒルでの娼婦としての生活が始まったのでした。
娘たちは朝から起きてくることは稀で、お昼過ぎに階段をよろよろと下り、苦味酒とパンとコーヒーで生気を取り戻し、三時頃にはその晩の浮かれ騒ぎのために身支度を始めます。その骨の折れることといったら。というのも、彼女たちは本当の自分を見せないように変装しなければならないのですから。お化粧や付けぼくろ、入れ歯や差し歯、それにかつらを使ったその技はまったく大したもので、よそ者がろうそくの炎で見れば現代のソロモンが世界各国から美女たちを集めてきたのではないか、と見紛ったとしても不思議ではありません。が、この魅惑的な女性たちの普段の姿をひとたび覗き見れば……。優雅とはほど遠い物腰、はれぼったい顔、充血した目、腐りかけた歯、強烈な悪臭を放つ息。情熱をこめた求愛どころか、どんなに熱い思いも必ずや冷めるに違いありません。
(71ページ)
劣悪な環境で三年ほど過ごし様々な衝撃的な出来事を目撃した〈私〉は1812年、私掠船の中尉と知り合います。そして男装して兵卒になり活躍したロバート・シャートリフという女性の話を聞きました。
娼館から逃げた〈私〉は水夫に身を変え、大海原へ飛び出して……。
第二部 続 ルーシー・ブルーアの物語
以前すすめられて出版した本が好評だったので、前作では省略した出来事を語る決意をします。男装して旅行していたある時のこと。馬車で乗り合わせた十七歳ほどの娘が、侮辱される事件が起こりました。〈私〉は乙女を守るために決闘をふっかけます。それだけ自信があったのは、年輩者を敬わず女性を貶める破廉恥な輩は、いざ決闘となると尻込みしてしまう情けない男であろうと経験上分かっていたから。
男は友人がいるニューポートに着いたら決闘しようと言いますがピストルを用意した〈私〉は男を呼びすぐ決闘しようと言ったのでした。
それに対して私は、ことは一刻の猶予もならないほど深刻であると主張し、ピストルを一つ手に取るや表情も険しく、いかなる延期にも応じるつもりはない、どちらかが部屋を出るときまでにすべてを片づけるべきだ、と断言しました。震える若者は今度は諭すように、満足のいく方法はほかにもあるはずだ、と言い出しました。方法は二つしかない、一つは君が提案したとおり、もう一つは、では、私が提案させてもらおう、君が老紳士とうら若き女性に相応の謝罪をすることだ、と私は返答しました。これは、優勢な相手でも打ち負かしたと豪語する若者が飲み下すにはいささか苦い薬です――ですが撃鉄を起こしたピストルを持って、今すぐ決着をつけるべきだと主張する私の姿を見て、私が本気であることを悟ったのでしょう。彼はしぶしぶこちらの提案を聞き入れることにしました。(97ページ)
実は二丁のピストルに弾は入っておらず、老紳士は〈私〉の度胸に感服し乙女は自分が行く親戚の家に遊びに来るよう誘ってくれて……。
第三部 恐ろしいノロシ
前作で自分の自伝的なスケッチを試みましたが、その後思いがけないことが〈私〉の身に起こったので、三度語ることにします。娼館での悲惨な日々、水夫としての様々な冒険を経て、故郷へ戻った〈私〉。やがて同じ村で暮らす商人の一人息子であるウィリアムが頻繁に訪れてくれるようになります。最初は友情だと思っていましたが、愛情を打ち明けられ〈私〉もウィリアムを憎からず思うようになりました。
ウィリアムは二、三週間の予定で旅立ち、手紙のやり取りをする約束を交わします。一方前作を読んで〈私〉の経歴に驚いたチャールズ・ウェストという人物から手紙が届きました。決闘で救った乙女の兄。
ウェスト一家は〈私〉と会ったことがありましたが、男装していたので女性だとは知らなかったのです。東部の州をまわる予定なので、もしよかったら、もう一度会ってお礼が言いたいと書かれていました。
そうして〈私〉はウェスト氏と交流を深めていき、ウェスト氏に好感を抱きますが、ウィリアムと人生をともに歩んでいくという決意は揺るぎません。しかし間もなく思いも寄らぬ知らせがもたらされ……。
ルイザ・ベイカー(別名ルーシー・ブルーア)の最新書に寄せる短い応答
ルイザ・ベイカーあるいはルーシー・ブルーアの告白が世間の注目を集めていますが、いくつもの大きな誤りがあることを娼館の女主人である〈私〉は知っていました。これ以上の侮辱には堪えられません。
エリザ・ボウエンの本当の気質、彼女が本当の悔悛者なのかどうか、それについてはヒルに住んでいた頃の彼女をよく知る者に聞くのが一番でしょう。仲間うちでも彼女ほど「嫌悪すべき娼婦」はいませんでした。「真夜中の浮かれ騒ぎ」に誰よりも興じ、「災いと奸計」を率先して共謀し、夜毎ダンスホールに通いつめ、獲物の獲得にかけてはぬかりなし。「尊敬できる人物と見なされるためのすべてを自ら犠牲にした以上、今さら友人たちから良き評判を享受できるとは、考えるだけでも無駄なこと」と書いているものの、彼女が両親に会いたいと言ったことは二年以上ものあいだ、一度たりとてありませんでした。(178ページ)
ルイザ・ベイカーあるいはルーシー・ブルーアあるいはエリザ・ボウエンの自伝風スケッチを引き合いに出しながらそこに隠されたいくつもの嘘やごまかしを暴き、〈私〉は彼女の驚くべき本性を綴り……。
アルマイラ・ポールの驚異の冒険
ウィリアム・ポールという船乗りと結婚して二人の子供にもめぐまれた〈私〉アルマイラ・ポール。しかし一八一二年、英国の私掠船に乗船した夫は、アメリカの私掠船との戦闘中に亡くなってしまいます。
幼い子供を抱え経済的に困窮したこともあり、また夫の復讐を果たしたいと思ったこともあり子供を母に預け、夫の服を着て変装しコックの助手として英国のカッター船ドルフィン号に乗り込んだのでした。
コックとしての腕前と持ち前の身の軽さで周囲から認められた〈私〉でしたが、シーホース号という船に移った時下劣で悪辣、非人間的な要素がすべて凝縮された料理長の下で働くことになってしまいます。
何度も女性であることがばれそうな危機に直面することとなり……。
伝道を目的とするボストン女性協会の設立と発展に関する短い報告
一八〇〇年十月九日バプティスト教会と会衆派教会に属する婦人十四名によって設立された「伝道を目的とするボストン女性協会」。集められた寄付は貧窮している区域を中心にした伝道活動に使われます。
教会が直面した問題は「悪と愚行の道に迷い込み、善人としての名誉を失った不幸にして哀れな女性たち」(217ページ)が悔悛し正しい生活を送るようになっても周りから受け入れられないことで……。
とまあそんな6編が収録されています。もしかしたら筋的に一番面白いのは、「アルマイラ・ポールの驚異の冒険」かも知れません。罰を受けたり病気になったりと、何度も正体がばれそうになるんですよ。
物足りなさはあるものの、わりとスリリングで煽情的な要素がある作品です。また色んな意味で「ルーシー・ブルーアの冒険」とは対照的な作品になっていて、読み比べるとそれぞれのよさが引き立ちます。
『女水兵ルーシー・ブルーア』は「アメリカ古典大衆小説コレクション」では珍しく一般の読者におすすめではないですが、250ページほどの短い巻なので、興味を引かれた方はぜひ読んでみてください。
次回は、よしもとばなな『デッドエンドの思い出』を紹介する予定です。