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J.D.サリンジャー(村上春樹訳)『フラニーとズーイ』(新潮文庫)を読みました。
今、新たに刊行された『フラニーとズーイ』を前にして、二通りの反応があるだろうと思います。「ああ、懐かしいなあ」と思った方と、「おっ、村上春樹の新しい翻訳が出たんだ」と興味をそそられた方。
世代の差ということもあるでしょうが、それよりも何よりも、サリンジャーファンか村上春樹ファンかで分かれる二つの反応と言えます。
2003年以降日本におけるサリンジャーの状況は大きく変わりました。野崎孝訳で親しまれていた『ライ麦畑でつかまえて』が村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』として新たに刊行されたから。
キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)/白水社
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周りとうまく付き合えないホールデンが学校を退学になり、しばらく放浪する様を饒舌な語り口で書いた小説で、全く理解出来ないという人がいる一方で、熱烈な共感を覚える読者が多く生まれた作品です。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がサリンジャーの長編の代表作なら、短編集の代表作が『ナイン・ストーリーズ』。そちらも野崎孝訳で親しまれていましたが、2009年に柴田元幸の新訳が出ました。
ナイン・ストーリーズ (ヴィレッジブックス)/ヴィレッジブックス
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『ナイン・ストーリーズ』は発表当初は単にそれまで発表された短編を集めたものと考えられていましたが、やがていくつかの短編の主人公に血縁関係があることが、他の作品で語られるようになりました。
実は、グラス家という、家族の連作が構想されていたのです。『ナイン・ストーリーズ』の中の衝撃作「バナナフィッシュにうってつけの日」の主人公シーモアの弟がズーイであり妹がフラニーになります。
なのでかつては、『ナイン・ストーリーズ』にハマった人は、必然的に野崎孝訳の『フラニーとゾーイー』にも手を伸ばすことになったのでした。ぼくもそうでしたが、そういう人にとっては懐かしい一冊。
新訳では登場人物の名前とタイトルが「ゾーイー」から「ズーイ」に変わっています。そうした事情やこの作品についての村上春樹の解釈が新潮社のサイトにアップされているので、興味のある方はどうぞ。
→『フラニーとズーイ』特設サイト(外部サイト)
さて、「懐かしい」という反応の方はまた新たな気持ちで手にとってもらえばいいわけですが、問題となるのは村上春樹の新訳ということで興味を引かれて前情報なしに『フラニーとズーイ』を手に取る方。
やはり、グラス家についての予備知識があった方が楽しめる作品なので。一応少し書いておくと、グラス家には上と下とで18歳の差がある七人の子供がおり、いずれもラジオのクイズ番組で活躍しました。
長男がシーモア(拳銃自殺)、次男がバディー(隠遁作家)、長女がブーブー(三児の母)、男の双子がウォルト(軍人。事故死)とウェイカー(司祭)、五男がズーイ(俳優)、次女がフラニー(学生)。
ズーイとフラニーはいずれも生き辛さを感じているのですが、それをシーモアとバディーからの思想的な影響故と思っている部分があります。なのでシーモアやバディーのことを知っておいた方がいいです。
ただあれなんですよ、『ナイン・ストーリーズ』や『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア―序章―』を読んでもすっきりすべてが分かるということはなく、むしろ謎がどんどん深まる感じもあります。
どの道、グラス家について分からないことは分からないので、いきなり『フラニーとズーイ』から読むというのもありといえばありです。
『フラニーとズーイ』では、ズーイとフラニーの悩みや苦しみがはっきりと語られていないだけに、共感しにくい一方で、だからこそ読者が自分の悩みや苦しみを重ね合わせられる作品なのかも知れません。
作品のあらすじ
『フラニーとズーイ』には、「フラニー」と「ズーイ」の2編が収録されています。
「フラニー」
バーバリのレインコートに身を包んだレーン・クーテルは、淡いブルーの便箋にタイプされたフラニーからの手紙を読みながらプラットフォームで待っていました。フラニーと週末を過ごす予定なのです。「レーン!」とフラニーはいかにも嬉しそうに彼に声をかけた。そもそも表情を顔から一掃してしまおうと考えるようなタイプではない。彼女は両腕を彼の身体にまわし、キスした。それは駅のプラットフォームでよくあるキスだった。最初はさっと自然に出てきたものなのだが、それが終わり切らないうちに気恥ずかしくなり、うっかり額をぶっつけあったときみたいに、なんとなく居心地悪くなる。「私の手紙は届いた?」と彼女は尋ねた。それからほとんど間を置かずにこう付け加えた。「あなたって、まるで氷みたいに冷えきった顔をしてるじゃない。どうして暖かいところで待っていなかったの? それで私の手紙は届いた?」(19~20ページ)
ダウンタウンにある「シックラー」というレストランで食事をすることにしたレーンとフラニー。レーンは自分がとりかかっている論文や今後の研究テーマについて、フラニーにずっと語り続けていました。
フラニーはマティーニのことなど他のことを話そうとしましたがレーンは取り合わず、フラニーは段々具合が悪くなってしまいます。レーンに攻撃的な態度を取ったフラニーは、化粧室へと姿を消して……。
「ズーイ」
それから二日が経った一九五五年十一月の月曜日の朝。俳優をしている二十五歳の青年ズーイ・グラスは風呂の中で現存する一番上の兄であるバディー・グラスから四年前に送られた手紙を読んでいました。手紙はこの小説の書き手の文章とよく似ており、この作品が、「短篇小説というようなものからは程遠く、むしろ散文によるホーム・ムーヴィーに近いものである」(72ページ)ということが語られます。
一九二七年から一九四三年もの間、入れ替わりながら『イッツ・ア・ワイズ・チャイルド(なんて賢い子ども)』というラジオのクイズ番組に出演し続け、リスナーを驚嘆させたグラス家の七人の子供たち。
今では俳優として活躍しているズーイは、手紙を読み終えると脚本を読み始めました。するとそこへ母親のミセス・グラスがやって来て、フラニーの様子がおかしいから相談に乗ってやってくれと言います。
落ち込んでいるフラニーから台無しになった週末の話を聞くズーイ。
「その話は昨夜少しばかり聞いた。一度聞けばじゅうぶんだよ」とズーイは言った。そして再び窓の外に目をやった。「まずだいいちに、自分自身を厳しく責めるかわりに他人やらまわりのものごとにあたりまくるのは正しくないことだ。しかし僕らは二人ともそういう傾向を持っている。それと似たことを、僕はテレビ業界に向かってやっている。間違ったことだとわかっているんだが、どうしてもやめられない。それが僕らなんだ。僕はそのことをずっと君に言い続けている。その話になると、どうしてそんなにわかりが悪いんだ?」
「何もその話についてわかりが悪いわけじゃない。ただあなたが言ってるのはずっと――」
「それが僕らなんだ」とズーイは相手を遮るように繰り返した。「僕らはフリークだ。まさに畸形人間なんだよ。あのろくでもない二人組が早いうちから僕らを取り込み、フリーク的な規範をせっせと詰め込み、僕らをフリークに変えてしまった。それだけのことなんだ。僕らはいわば見世物の刺青女であり、それこそ死ぬまで、一瞬の平穏を楽しむこともできないんだ。ほかの全員が同じように刺青を入れるまではね」。ずいぶん陰鬱な顔で彼は葉巻を口にくわえ、一服しようとした。しかし火は消えていた。
(200~201ページ)
二人の兄シーモアとバディーの思想に強く影響されていること、そして一方的に喋ることしか出来ないラジオの呪縛から逃れられていないと語るズーイはフラニーを攻撃し、追い詰め、泣かせてしまいます。
やがて、隠遁生活を送るバディーから電話がかかって来ますが……。
とまあそんな2編が収録されています。ストーリーではなく対話で進んでいく小説であり、なおかつ、その人物の感覚的なものだったり、宗教的だったりが語られているのでとっつきにくさはあるでしょう。
すっきりと理解出来る部分が少ない小説だと言えます。なので自殺してしまった兄シーモアや姿を消すように暮らす次兄バディーに対してズーイやフラニーが抱えている思いなど分からないことも多いです。
しかし、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で読者がホールデンを自分のようだと感じたように、『フラニーとズーイ』も感情移入とは少し違った形で自分もズーイでありフラニーであると感じられる作品。
語られていない要素が多い故に、難しさもあり、好き嫌いの分かれる『フラニーとズーイ』ですが、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にハマった方は間違いなく楽しめるはずなので、読んでみてください。
次回からは、また少し日本の作品を。少し変わった恋愛小説をいくつか紹介しようと思っています。まずは、佐藤正午『ジャンプ』から。