ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』 | 文学どうでしょう

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ある婦人の肖像 (上) (岩波文庫)/岩波書店

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ヘンリー・ジェイムズ(行方昭夫訳)『ある婦人の肖像』(上中下)を読みました。amazonへのリンクは、上巻だけを張っておきます。

日本文学、アメリカ文学、イギリス文学と、国ごとに文学をくくって考えた時に、やはりどことなく共通する問題意識というかテーマが見えるものです。その国独自の文化の流れを汲んでいるからでしょう。

ただ、極まれにそう言った範疇ではおさまりきらない作家がいて、ヘンリー・ジェイムズはまさにそういう作家の一人。アメリカ生まれですがヨーロッパ暮らしが長く、最終的にはイギリスに帰化した人物。

外国暮らしが長い作家というのは、案外多いものですが、ヘンリー・ジェイムズの場合は国の文化の違いによって生まれる考え方の違いが作品で描かれることが多く、国際的なテーマを持つ作家と言えます。

おそらく一番手に取りやすいのが『デイジー・ミラー』という中編小説でしょう。デイジーというアメリカ人女性の振る舞いがヨーロッパでの”常識”と違っていたが故に思わぬ顰蹙を買ってしまう物語です。

デイジー・ミラー (新潮文庫)/新潮社

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デイジー・ミラー』だけ読みたいなら新潮文庫の西川正身訳がいいですが岩波文庫に『ある婦人の肖像』の訳者と同じ行方昭夫訳で『ねじの回転』とセットで収録されているので、そちらもおすすめです。

短くて読みやすい『デイジー・ミラー』を読んで、文化の違いというテーマは非常に興味深いと思った方に続けて読んでもらいたいのが、今回紹介するヘンリー・ジェイムズの代表作、『ある婦人の肖像』。

主人公イザベル・アーチャーは近代的な考え方を持つ若いアメリカ人女性ですが、イギリスの親戚の家に身を寄せることになり、やがてその美しさと頭の良さが見初められイギリスの貴族から求婚されます。

普通だったらここでハッピー・エンドですが、自立と自由を求めるイザベルは求婚を断ってしまいました。幸せの道を模索していたイザベルもついに恋に落ちて結婚しイタリアで暮らし始めたのですが……。

アメリカ、イギリス、イタリアと、それぞれの国ごとに人々の考え方が違い、文化的な対立が描かれているのが非常に興味深い作品です。

また、この作品の最大の魅力はイザベルという女性の複雑さが巧みに描かれていること。原題は"The Portrait of a Lady"ですが、まさに物語というよりポートレイト(肖像)と呼ぶにふさわしい小説です。

喜劇にせよ悲劇にせよ物語がよく出来ていればいるほど予定調和な結末に集約されていくものですが、『ある婦人の肖像』は静かな展開の物語ながらイザベルという主人公は読者の予想に納まりきりません。

イザベルがなにをどう考えて行動したのか様々な論文が書かれているほど。分かりやすい幸せ、あるいは分かりやすい不幸せが描かれた物語的な作品ではないですが、その分人物にリアルな深みがあります。

上中下のやや長い作品なので、読み切れるかどうか心配な方はジェーン・カンピオン監督、ニコール・キッドマン主演で1996年に公開された映画『ある貴婦人の肖像』を先に観てもいいかも知れません。

ある貴婦人の肖像 [DVD]/ニコール・キッドマン,ジョン・マルコビッチ,バーバラ・ハーシー

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セットは豪華、キャスティングも最適、場面の雰囲気もいい映画ですが、やはりどうしても省略をせざるをえない人物や筋があり駆け足な印象があるのは否めません。原作とあわせて観るのがおすすめです。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 ある状況の下では、午後のお茶という名で知られている儀式の時間ほど楽しいものは、人生においてあまり見当らない。お茶に加わるかどうかにかかわりなく――というのも人によっては加わる可能性のまったくない人もいるからだが――お茶を楽しむ雰囲気だけでも充分に心地好い場合というものもある。この単純な物語を語り始めるに当って、今、私の頭に浮んでいるのは午後のお茶の場面にうってつけだ。(上巻、9ページ)


ロンドンから少し離れたテムズ川沿いの丘の上にある屋敷でタチェット父子と客人のウォーバトン卿がお茶を飲んでいました。タチェット氏は元々アメリカ人ですが、もう30年イギリスで暮らしています。

息子のラルフは明るく機知に富んだ人柄ですが病弱なのが悩みの種。やがて、ラルフの飼っている小犬が歓迎の意を込めてらしいのですが、吠えだしたのでふと見ると若い婦人が戸口に現われたのでした。

それはタチェット夫人の妹の娘にあたり、ずっとアメリカで暮らしていたイザベル・アーチャーで、タチェット夫人が気に入って、イギリスへ連れて来たのです。両親は亡くなり、姉二人は結婚しています。

故郷でキャスパー・グッドウッドという青年に求婚されたイザベルは思いがけずヨーロッパに行けることになったこともあり断りました。諦め切れないグッドウッドは、後にイギリスへ来ることとなります。

ラルフはいかにもアメリカ人らしい独立性を持ち、病弱な自分とは違い行動的なイザベルから爽やかな印象を受けますが、より一層イザベルという不思議な存在に心を惹かれたのが、ウォーバトン卿でした。

財産もなく魅力的ではあるもののずば抜けた美貌を持っているわけでもないイザベルとの結婚は、周りに反対されるであろうこともあり、自分の気持ちを押さえようとしますがついに我慢出来なくなります。

ウォーバトン卿から心のこもった求婚を受けたイザベルでしたが、自分は貴族の妻としてふさわしくないからと断ってしまったのでした。

やがて病気で倒れたタチェット氏は余命いくばくもない状況になります。タチェット氏はラルフにイザベルとの結婚を遠回しに勧めますがラルフは病気のために誰とも結婚するつもりはないと言うのでした。

そしてタチェット氏を驚かせた思いがけないことを口にしたのです。

 ラルフは腕を組んで椅子の背にもたれた。目は考えごとをしているように、じっと一点を見つめていた。ようやく、勇気をふるい起したような、きっとした面持で、「ぼくはイザベルに強い関心を寄せています。でもお父さんの望んでいらっしゃるのとは違う興味です。ぼくはこれからそう長く生きられませんが、彼女がどういう人生を歩んでゆくか、それをこの目で見届けるまでは生きたいと望んでいます。彼女はぼくからは完全に独立していますよ。彼女の人生に対してぼくが影響力を行使できることは、まずありえません。でも彼女のために何かしてやりたいと思います」
「どんなことかね?」
「彼女の帆に少し風を送ってやりたいのです」
「と言うと?」
「彼女のやりたがっていることをいくつか実行する力を与えてやりたいのです。彼女は自分の目で世界を見たがっています。彼女の財布にお金を入れてやりたいのです」(上巻、342ページ)


そして、ラルフは自分がもらえるはずの遺産を半分、イザベルに譲ってやってほしいと頼んだのでした。そうすればイザベルは生活のために結婚を選ぶ必要がなく、自由に生きることが出来るはずだからと。

一方、何も知らないイザベルは伯母の知り合いのマダム・マールという女性と出会い鮮烈な印象を受けました。すぐれたピアノの弾き手であり、フランス語を流暢に話す社交的な人物であるマダム・マール。

マダム・マールの芸術を愛し自由に生きる姿はイザベルに大きな影響を与えていくこととなります。タチェット氏が亡くなりイザベルが大きな額の遺産を相続するとマダム・マールはイタリアへ行きました。

ローマの修道院にいる幼い娘パンジーの面会に来ていたギルバート・オズモンド氏とマダム・マールは会います。そして、23歳のとても魅力的な娘を見つけたから、ぜひ紹介したいのだと言ったのでした。

「美人で頭がよく、金持で素敵で、何でも心得ていて、しかも稀にみるほど貞節な娘なのだろうか? そういう条件がすべて満たされた場合に限って、知り合いになりたいというところです。しばらく前に、今のような人でない限り、女の話はしないで欲しいと、あなたに頼んだでしょう? 不快な人間はいくらでも知っているから、これ以上知りたくない」
「ミス・アーチャーは不快ではありませんよ。早朝のようにさわやかなお嬢さんよ。あなたの条件にぴったりの人ね。だからこそ知り合うようにすすめているの。本当に条件通りの人だわ」
「むろん、九分通り条件に合っているということでしょう」
「いいえ、まったく文字通りに合致しています。美人で教養豊かで、気前がよくて、しかもアメリカ人の割には、生まれもいい。その上、頭はいいし愛想もいい。それに資産家だわ」
 オズモンド氏は夫人の熱弁をじっと聞き、相手に目を注ぎながら、とくと考えているふうだった。「で、その女をぼくにどうしろと言うのです?」ようやく彼は尋ねた。
「お分かりでしょう。あなたのものにするのです」
(中巻、68ページ)


やがてイタリアに旅行に行き、マダム・マールからオズモンド氏を紹介されたイザベルは、絵画など芸術への造詣が深く、他の男性とは違い理解しきれない部分の多いオズモンドに、魅力を感じていきます。

財産もなく、しっかりした職も持たず、家柄も不確かなオズモンドとイザベルが近付くことを周りはよく思いません。イザベルがオズモンドから求婚されたと知るとタチェット夫人やラルフは反対しました。

ところが、イザベルは皆の意見を聞かずオズモンドと結婚して……。

はたして、やがてイザベルにふりかかる思いがけない出来事とは!?

とまあそんなお話です。自分らしく生きるための幸せな道を選んだはずのイザベルでしたが、希望に満ちていたはずの結婚生活はまるで檻の中に入れられたような苦しいものであり、幸せとはほど遠いもの。

物語の中盤から後半は義理の娘パンジーの結婚の問題――愛を選ぶべきか金を選ぶべきか――が中心となり、またかつての求婚者たちと再会することで再びイザベルの生き方が問われていくこととなります。

ラルフによって密かに遺産を託されたように物語にはイザベルが知らない思いがけない事実がいくつかあります。劇的な展開はさほどない作品ですが、疑惑が確信に変わるショッキングな物語でもあります。

アメリカで育ちイギリスに渡り、イタリアで暮らすイザベル。彼女は何を見てどう考え、最後にはどんな選択をすることとなるのでしょうか。イザベルの人生に興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、マリヴォー『贋の侍女・愛の勝利』を紹介する予定です。