開高健『パニック・裸の王様』 | 文学どうでしょう

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パニック・裸の王様 (新潮文庫)/新潮社

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開高健『パニック・裸の王様』(新潮文庫)を読みました。「裸の王様」は、芥川賞受賞作です。

前後して芥川賞を受賞し、共に語られることも多い石原慎太郎や大江健三郎と比べると、開高健は知名度としては劣るかも知れません。

ですが、想定されうる読者層として最も幅が広いのは実は開高健なんです。石原慎太郎、大江健三郎、開高健でアンケートを取ったら、開高健が一番人気になるかも知れないくらい、小説として面白いです。

初期作品において、大江健三郎はやや閉塞的でぎこちない、そして石原慎太郎は享楽的で奔放な青春の日々を綴りました。

それは分かる人の胸に深く突き刺さる、純文学としての魅力がありますが、一方、理解できない人にはにはまったく分からない、そういう好き嫌いの分かれる作風であるとも言えます。

その点開高健は、文体にせよ内容にせよ、いわゆる純文学らしさというのはあまりないのですが、”組織の中で生きる人間”というのをテーマにしているだけに、誰が読んでも共感できる面白さがあります。

”組織の中で生きる人間”というテーマをもう一段階分かりやすく言うと、つまりビジネス小説としての面白さがあるということなんです。

やらなければならない仕事があるのに、頼りない上司に邪魔をされ、様々な思惑がうごめく伏魔殿で、理不尽な要求を突きつけられ続けます。それでも組織の中で生きていかねばならないのです。

始まったばかりのドラマを見ても、銀行員の孤独な戦いを描く「半沢直樹」や会社の落ちこぼれが思わぬ活躍を見せる「ショムニ2013」など、”組織と人間”を描いた作品がヒットしています。

それだけ需要が高いということなのでしょう。集団の中で窮屈さや理不尽な出来事への憤りを感じるのは何もサラリーマンだけに限らず、学生でも同じですし、家族や友達、恋人との間でもあることなので。

小説に何を求めるかで違って来ますが、文章や描かれている感覚に優れていても物語性に欠ける純文学よりは、物語性豊かなエンタメ小説が読みたいという方に、『パニック・裸の王様』はおすすめですよ。

特にぼくが好きなのが「パニック」という短編。120年ぶりにササに実がなります。その実をめがけてネズミが至る所から集まって来て、大量に繁殖してしまうであろうことが予想されました。

主人公は様々な対策をあげますが、上司から却下されてしまいます。

 課長はめんどうげに彼の手から日報をとると、パラパラ二、三枚はぐった。
「特記事項ナシ、例年ト大差ナシか。君の予想とはずいぶんちがうようだな」
「……なにしろ雪ですからね。冬はネズミの動きはめだたないものなんです」
 課長は彼の答えに不満らしく頭をふった。
「君、日報は局長室まで行くんだよ。いくらササ原を焼けといったって、現実になにも起っていなかったら、焼こうにも焼きようがないじゃないか。局長だって納得しないのがあたりまえだよ」
 俊介はこのあたりでちょっと抵抗してみせるのも手だと思ったので、
「おっしゃるとおりですが、起ってからではおそすぎるんじゃないかとも思ったもんですから」
 といった。すると相手はすぐ餌にとびついて来た。課長は回転椅子に背を投げると、俊介の顔をちらちと眺めた。その眼には満足そうな軽蔑のいろがはっきりでていた。課長はきめつけるようにいった。
「当てずっぽで役所仕事ができると思うかね。前例もないのに、君の突飛な空想だけで山は焼けないよ。君の企画はお先走りというやつだ。気持はよくわかるがね」(14~15ページ)


もうここを読んだだけで物分りの悪い課長にいらいらさせられたと思いますが、学者の予測や主人公が予想していた通り、春になるとネズミが大量に繁殖し、町中がパニックになってしまうのです。

そうしたパニックの中、組織の中でうごめく人間の、様々な思惑を浮かびあがっていくという物語。非常に読まされる、実に面白い短編で、主人公が最後に呟くある台詞が、とても印象に残ります。

他の作品もストーリーとして面白い短編ばかりで、ぼくはかなり夢中になって読まされてしまいました。おすすめの一冊ですよ。

作品のあらすじ


『パニック・裸の王様』には、「パニック」「巨人と玩具」「裸の王様」「流亡記」の4編が収録されています。

「パニック」

一年前の春、その年の秋に120年ぶりにササが実を結ぶことが予測され、役所の研究課の学者や技術官たちは、翌年の春のネズミの大量繁殖を予測しました。

山林課にその警告が伝えられましたが、一体どれほどの被害が出るのか、それは何らかの対策が必要なほどに大きな問題なのか分からないため、しっかりした対策は取られないまま日々は過ぎていきます。

山林課につとめる俊介は何度か上司に対策案を出しましたが、すべて必要のないものとされ、握りつぶされてしまったのでした。

やがて雪がとけると、山林の根がネズミたちにかじられていたことが分かります。どんどん集まり、増えていくネズミたちは、村の穀物倉を襲うようになり、町にはドブネズミがあふれるようになりました。

殺せど殺せどネズミは現れ、俊介はまるで「多頭の怪物ヒドラと闘っているようなものだ」(42ページ)と思います。パニックに襲われた上司たちは責任転嫁するのに必死ですが、一人さめている俊介。

元々、自分の対策案は取り上げられないだろうと思っていたので、この日をずっと待っていたのです。「あのときのマイナス二〇点はいまじゃプラス四〇点か六〇点ぐらいに」(46ページ)なるだろうと。

最小(ミニマム)のエネルギーで最大(マキシム)の効果をあげるミニ・マックス戦術で自分の地位を固めることに成功した俊介ですが、役所の中の人間には、それぞれの思惑があって・・・。

「巨人と玩具」

サムソン製菓につとめる〈私〉は、ビルの2階にある部屋から、駅前の広場を行き交う人々を時折眺めます。

昼となく夜となく、ガラス壁の外を人が流れていく。海のようだ。一日に二度、大きな潮が上下する。通勤人たちの隊伍である。この行進はものがなしい。朝は陽がまぶしいため、夕方は空腹と疲労のため、この人たちはいつ見てもうなだれている。そして足どりだけはせかせかといそがしい。彼らは古鉄の箱から吐きだされると足なみそろえて広場に流れこみ、ガラス壁にそってさかのぼり、あちらこちらの色さまざまなコンクリート壁のなかへつつましやかに吸いこまれてゆく。その数知れぬ足音は巨大な波音となっておしよせ、部屋にいる私の体内にもこだました。(80~81ページ)


かつて飛ぶように売れていたキャラメルの人気も徐々に下火になって来て、サムソンとライバル会社のアポロとヘルクレスは、過酷な宣伝戦争に入っていきました。

サムソンが宇宙をモチーフにしたグッズがあたるくじをつけると、対抗してヘルクレスは小動物があたるくじをつけ、アポロは子供たちではなく親を狙って奨学金があたるおまけをつけたりするのです。

キャラメル戦争のこう着状態を打破するために、サムソンは新たな手を打つことにしました。宣伝のモデルに一か八か、サムソンがスカウトした、まったくの新人の京子を使うことにしたのです。

大きすぎる目、大きすぎる口、濃い眉、しゃくれた鼻。彼女は美少女ではないが、写真にするとふしぎにこれらの欠点が特異な個性となって生きる顔をしていた。春川が合田に、ネガ美人だといっていたことはそれだった。人びとに魅力をあたえたのはその奇妙な顔にあふれた若わかしさと感情のゆたかさ、新鮮さだった。
(91ページ、本文では「美人」に「シャン」のルビ)


決して美しくはないが、独特の魅力のある京子を宣伝に使う戦略はヒットし、アポロが思わぬことでキャラメル戦争から脱落したことから、サムソンの未来は明るいように思われたのですが・・・。

「裸の王様」

子供たち相手の画塾を開いている〈ぼく〉の所へ、友人の紹介で大田太郎という小学2年生の少年が通って来ることになりました。

太郎は最近急速に発展を遂げた大田絵具の社長の息子。裕福な家の子供ですが、実母を亡くし、父は仕事に忙しく、義母が太郎を縛り付けてばかりいるからか、何事にもあまり反応を示さない少年です。

彼は無口で内気で神経質そうな少年で、夫人とぼくが話しているあいだじゅう身じろぎもせず背を正して椅子にかけていた。その端正さにはどことなく紳士を思わせるおとなびたものさえあった。(中略)たいていの新入の子が眼を輝かせる壁いっぱいの児童画に対しても彼はまったく興味を示さなかった。彼は窓からさしこむ日曜の正午すぎの日光を浴びて、ものうげに机の埃りを眺めていた。母親が彼の名を口にだすたび、彼は敏感さと用心深さをまじえたすばやいまなざしでぼくの顔をうかがい、ぼくがなんの反応も示さないとわかると、またもとの無表情にもどった。その白い、美しい横顔にぼくは深傷を感じた。(156ページ)


人間が出て来るまともな絵を描けない太郎の心を開かせようとする一方で、〈ぼく〉はふとした思い付きから、デンマークのアンデルセン振興会に手紙を書きました。

アンデルセンの童話をモチーフにした絵を日本とデンマークの子供たちに描かせて、それを交換したら面白いと思ったから。

予想外に話がうまくまとまったので喜んでいましたが、ひょんなことから太郎の父がこの企画に乗っかります。やがて企画は、審査員をつけて賞金を出す大々的なコンクールになっていってしまい・・・。

「流亡記」

黄土の平野にある小さくて古い町。一応城壁に囲まれてはいますが、戦いの役にはあまり立たません。

次から次へと入れ替わり立ち代わり、「どこの国のどんな人間なのかもわからない」(262ページ)新しい将軍が兵士を連れてやって来て、この町を支配するのでした。

やがて始皇帝によって帝国が築かれると、町の人々は仕事を命じられてどこかへ連れていかれることになります。

部隊が大きくなるにつれて私服の憲兵にかわって完全武装した兵士が私たちを監視するようになった。彼らは馬や兵車にのって部隊の前後を守り、逃亡したり、抵抗したりするものがあればその場で切り殺した。病人や老人たちが過労にたえかねて倒れると、これまた容赦なく惨殺し、死体をそのまますてて行進をつづけた。彼らは犠牲者が他界に再生することのないよう、かならず首を切りおとした。沿道の町村の人びとはそのような死体を公墓地に葬る習慣をもたなかったので、死体は陽に蒸され、雨にぬれて、とけたり、くずれたりするままになった。私たちはぼろぎれのようになったシャツと服のうえに縄一本をしめ、これらのもうもうとした狂気の腐臭を発散する影たちといっしょに街道を歩いていった。
(289ページ)


やがてそれは、外敵を防ぐために、「過去の諸王の遺産を補修改築し、切れた部分をつなぎあわせ、臨洮から遼東におよぶ」(308~309ページ)長城の工事をさせられるためだと分かって・・・。

とまあそんな4編が収録されています。「パニック」は役所を舞台に、「巨人と玩具」はお菓子会社を舞台にした短編で、「流亡記」は始皇帝による万里の長城の工事を描いた、歴史小説的な短編です。

芥川賞受賞作の「裸の王様」の”裸の王様”というのは、勿論アンデルセンの童話から来ています。仕立屋に騙されて裸でパレードをした王様が、子供に裸であることを指摘されるというお話でしたね。

この短編の中で、何がまるで”裸の王様”のようなのか、それは実際に読んで感じてもらいたいと思いますが、少しだけ触れておきます。

子供が純粋な気持ちで描いた絵と、コンクールで入賞するような絵とは違うんですね。コンクールでは独創性あふれる作品ではなく、絵本などをお手本にした、”それらしい”絵が評価されてしまうのです。

絵を評価する審査員たちも、自分たちの意見を通すというよりは、周りの顔色を伺い、コンクールを主宰する絵の具会社の社長は建前こそ立派ですが、実際は商売に結び付くことしか考えていないわけです。

表面上だけは立派で、本当に大切な何かは失われているその空虚さを、滑稽味を持たせながら批判的に描いた作品で、思わずにやりとさせられる、そういう面白さがありました。

孤独な少年や絵画コンクールに目がいきがちですが、実は注目してもらいたいのは太郎の義母の大田夫人なんです。大田夫人をめぐるエピソードにも優れたテーマ性があって、とても印象に残りました。

3日間にわたって、「第三の新人」の後に現れた3人の作家の、初期短編集を紹介して来ましたが、いかがだったでしょうか。

どの短編集も今ではあまり読まれなくなって来ていますが、本自体は改版(活字が大きくなったり、新しいカバーになったり)されて新しかったりしますので、ぜひ気軽に手に取ってみてください。

日本文学は近い内に佐藤春夫と、映画『風立ちぬ』の公開にあわせて、堀辰雄を特集的に取り上げようと計画中なので、お楽しみに。

そして明日からなんですが、この前読んでとても面白かったので、フランスの喜劇作家モリエールの特集をしようと思っています。

『孤客 ミザントロオプ』は、新潮文庫のバージョン『人間ぎらい』を取り上げたので、またいずれ機会があればということにして、その他の岩波文庫、残り6冊を一気にやります。

6夜連続モリエール祭り。面白そうだと思った作品は、ぜひ実際に読んでみてくださいね。