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遠藤周作『白い人・黄色い人』(新潮文庫)を読みました。
「白い人」で芥川賞を受賞していることもあり、『白い人・黄色い人』は、遠藤周作の原点として読まれることが多い作品です。
確かに、初期の作品ながら、キリスト教の神が日本人にとってどんな意味を持ちうるのかを問い続けた遠藤周作ならではの問題意識(信仰とは何か、人種差別の問題)がはっきり出ている一冊でした。
”白い人”は白人、”黄色い人”は黄色人(より限定すれば日本人)を表しており、第二次世界大戦中のフランスと日本で起こった、言葉を失うような恐ろしい出来事が描かれた物語です。
キリスト教など、宗教色が強い作品は、なんとなく読むのに抵抗を感じる方もいらっしゃるだろうと思います。
しかし、遠藤周作の小説を実際に読んでみると、抱いていたイメージとまったく違う印象を受けるはずです。何故なら、キリスト教の素晴らしさを訴えた物語とは全く違うから。
「白い人」は、ナチスドイツの秘密警察(ゲシュタポ)の手先となり、自分の知り合いの神学生を拷問にかけることになったフランス人の物語。
それだけでも非常にショッキングな出来事ですが、そのことに苦悩する物語ではないんですね。むしろ全く逆の物語で、とことんその神学生を痛めつけ、苦しめようとする物語なんです。
拷問を受けることが神に認められること、神学生にとって殉教的な歓びになってしまうと感じたそのフランス人は、それを目茶苦茶にしてやろうとして、さらに恐ろしい行動に出てしまいました。
一体何がそのフランス人をそうした狂気的な行動に駆り立てたのでしょうか。それが、子供時代から青年時代にかけてのややアブノーマルな経験を通して語られていきます。
「黄色い人」は、姦淫の罪を犯し、堕落してしまった白人の神父と、信仰心を持てない日本人青年との不思議な交流を通して、ある悲劇的な出来事を描いた物語。
日本人青年は親戚の影響を受けて、キリスト教の洗礼を受けているものの、信仰心を持たず、またキリスト教的な罪の意識を感じることの出来ない人物として描かれています。
結局、神父さん、人間の業とか罪とかはあなたたたちの教会の告解室ですまされるように簡単にきめたり、分類したりできるものではないのではありませんか。(中略)黄色人のぼくには、繰り返していいますがあなたたちのような罪の意識や虚無などのような深刻なもの、大袈裟なものは全くないのです。あるには、疲れだけ、ふかい疲れだけ。ぼくの黄ばんだ肌の色のように濁り、湿り、おもく沈んだ疲労だけなのです。(110ページ)
多くの日本人は、何が罪で何が罪でないかを、キリスト教的な倫理観で判断しませんよね。死後に裁かれるか否かというのは、ほとんど考えたことがないのではないでしょうか。
この青年は虚無的な、少し歪んだ性質を持っているので、必ずしも日本人一般を代表する人物ではありませんが、極めて日本人的ではあり、言っていることが分からなくもない感じがあるんですね。
それだけにより一層、ぼくは考えさせられる部分が多かったです。究極的に追い込まれた時、日本人は一体何を心のよりどころにしているのか、或いは何をよりどころにすればよいのか――。
これは非常に難しい問題であり、まさに遠藤周作がずっと取り組み続けているテーマなんです。関心のある方は、ぜひ遠藤周作の小説を読んで色々と考えてみてください。
「白い人」も「黄色い人」も、人間にとっての正しい道を照らすような、清く正しく美しい物語なのではなく、人間の暗部や醜さを、これでもかというほど見せつけられる、そういう恐ろしい物語。
簡単に主題が取り出せず、またうまく感想すらまとめられないくらい、心揺さぶられる一冊です。
作品のあらすじ
『白い人・黄色い人』には、「白い人」「黄色い人」の2編が収録されています。
「白い人」
1942年1月28日。ナチスドイツが爆破したローヌ河橋梁の炸裂音で部屋の窓ガラスが震える中、〈私〉はこの手記を書いています。聯合軍(レ・ザリエ)はこのリヨン市に近付いており、もはやナチスドイツの敗北は明らかでした。ナチスドイツの秘密警察(ゲシュタポ)の一員だった〈私〉は、過去を回想していきます。
「今日、仏蘭西人でありながら、ナチの秘密警察の片割れとなり、同胞を責め苛む路を私に選ばせたものを説明するために、幼年時代の記憶まで遡らねばなるまい」(10ページ)と。
性的に奔放で浮気ばかりしているフランス人の父と、その反動もあり厳格な清教徒(プロテスタント)になったドイツ人の母の間に生まれた〈私〉は、母に厳しくしつけられて育ちます。
彼女はなによりも、私を罪に誘うものとして肉慾の目覚めを警戒したのである。夜、床につく時も下半身から眼をそらして寝衣に着かえさせられ、両手を毛布の下に入れることも禁じられた。母は、既に欲望の血が騒ぎはじめた私の肉体から、その炎をかきたてる一切のものを追い払おうと懸命だった。(12ページ)
しかし、やがて〈私〉は性的な目覚めを感じることとなります。12歳の時、女中のイボンヌが近所の野良犬を殴りつけている場面をたまたま目撃した時のこと。
どうやらその老犬が何か悪いことをしたらしいのですが、老犬の首を押さえつけているイボンヌの白いももに興奮を覚え、「私の肉慾の目覚めは虐待の快楽を伴って、開花した」(16ページ)のでした。
やがて大学入学資格試験(バカロレア)に合格した〈私〉は、ジャックという神学生と、ジャックが面倒を見ているその従妹のマリー・テレーズと出会います。
女性の貞淑さを重んじ、戦争が間近に迫る中、華々しいことをするのはキリスト教徒らしからぬ振る舞いだと考えているジャックによって、マリー・テレーズは舞踏会への参加が禁じられていました。
〈私〉は言葉巧みにマリー・テレーズを舞踏会へ連れ出し、無理矢理に思いを遂げます。それを知ったジャックは〈私〉のことを「悪魔!」(55ページ)と呼んだのでした。
やがて、秘密警察の一員となった〈私〉の前に思いがけずジャックが連れて来られて・・・。
「黄色い人」
高槻の収容所にいるブロウ神父に、亡くなったデュランさんの日記を送ることになり、〈私〉はそれに同封する手紙を書き始めました。東京の医学部に進んだものの、肺病にかかったことが分かり、死を強く意識しながら生まれ故郷の仁川(兵庫県)に戻って来た〈私〉。
かつては外国人がたくさん住んでいた町でしたが、戦争のためにほとんどの人が去り、今ではブロウ神父とデュランさんしか残っていないことが分かりました。
〈私〉には糸子という従妹がいます。今は入隊している佐伯という敬虔な青年の婚約者である糸子と、〈私〉はいつしかひそかな関係を持つようになっていました。
ぼくは糸子をその後も惰性のために犯しつづけ、ふかい疲労の重さをさらに自分のくびれた背の上に加えました。罪のくるしさも良心の呵責も感じません。佐伯にたいしてすまないという気はありましたが、暗い傾斜をころげていくどうにもならぬ気持です。
その黄昏も、自分の部屋で糸子をだきました。空は昼から重いひくい雲に覆われ、今にも雪がふりそうな気配でした。窓から見える庭もあれ放題に穢れていました。(119ページ)
〈私〉はデュランさんのことを思い出しました。デュランさんは、かつては神父で、〈私〉の洗礼もしてくれた人物です。
しかし、生涯独身でなくてはならないカトリックの司祭でありながら、日本の女と関係を結んだことによって、教会を追放されてしまったのでした。
あの人は地獄に落ちると噂され、信仰心を持つ子供たちから松の実や石つぶてを投げられ、「ワタシ、トシヨリデス。ユルシテクダサイ」(124ページ)とリューマチの脚を引きずっていたデュランさん。
思いがけないことがきっかけとなり、〈私〉はキミコという女性と暮らしているデュランさんの元を訪ねることになって・・・。
とまあそんな2編が収録されています。「黄色い人」は、日本人青年の手紙と交互に、デュランさんの日記の章が挿入されているんですね。
その日記で、デュランさんが何故キミコと一緒に暮らすようになったのか、そしてそのことがデュランさんの心をどう変えたのかが分かるようになっています。
キリスト教の神への信仰心を持ちながら追放されてしまい、そのことで思い悩み続けるデュランさんと、何かあると「なんまいだ」と唱えるキミコとの宗教観の衝突も、実に興味深い所でした。
「どうでもええんよ。どうせあたしには、あなたみたいな西洋人のように教会ってなにか、わからへんし。馬鹿な女ですさかい」
キミコは、私にゆさぶられて乱れた髪をなおしながら呟いた。「なぜ、神さまのことや教会のことが忘れられへんの。忘れればええやないの。あんたは教会を捨てはったんでしょう。ならどうしていつまでもその事ばかり気にかかりますの。なんまいだといえばそれで許してくれる仏さまの方がどれほどいいか、わからへん」(164ページ)
清廉潔白な生き方をしているブロウ神父、信仰心を持てない日本人青年、道を踏み外して思い悩むデュラン元神父。三者三様の生き方が描かれ、信仰とは何かが問いかけられた物語。
「白い人」「黄色い人」ともに人間の罪悪について描かれた重いテーマの作品ですが、それだけに深く考えさせられるので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。
明日は、井伏鱒二『黒い雨』を紹介する予定です。