島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』 | 文学どうでしょう

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優しいサヨクのための嬉遊曲 (新潮文庫)/新潮社

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島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』(新潮文庫)を読みました。

『優しいサヨクのための嬉遊曲』は、島田雅彦のデビュー作です。島田雅彦は当時22歳。

この前置きでは政治的な用語について少し説明しておこうと思います。「右翼(うよく)」「左翼(さよく)」「資本主義」「社会主義」「マルクス主義」と、この辺りの用語が分かっている方は、あらすじの紹介の所まで飛ばしてもらって大丈夫です。

さてさて、みなさんも「右翼」「左翼」という言葉をよく耳にしているはずです。でもあまり意味がよく分かっていない場合もあるだろうと思うので、ざっくり整理しておきますね。

「右翼」は愛国主義に近い主義と言えます。日本で言えば、天皇制を誇りに思い、日本を愛している感じです。

それだけに、既存のものをなかなか変えようとしない部分がありますから、そうした性質から、他人の意見を受け入れず、保守的な態度を取る人のことを「右翼」と呼ぶこともあります。

「左翼」は、それとは対照的に自由で新しい考えを持ち、必要ならば制度の改革をしようという主義です。それは時として、革命に結び付きます。

平和や平等など、何らかの理想を実現するために動く人々を指すことがあり、市民運動などと共に使われることも多いです。

「左翼」はより狭い意味で言えば、社会主義を指します。社会主義というのは、理論上はなかなかによくて、貧富の差をなくし、誰もがみんな平等な世の中を作ろうとするものです。

折角なので、資本主義と社会主義についても、少し確認しておきましょう。

みなさんが服屋に行くと、色んな服がありますよね。人気のある服もあれば、人気のない服もあります。

なかなか手に入らないものは値段が上がり、たくさんあり余っているものは、値段が下がります。

需要(欲しいと思う側)と供給(商品を作って売る側)のバランスから、価格がそうしてある程度、自動的に決定されるわけです。そうした自由な経済を資本主義と言います。

資本主義は経済の動きは活発になりますが、商品同士の競争がありますから、たくさんお金を儲ける人と、貧しい人とに分かれてしまうんですね。

同時に、余剰が出てしまうことも問題です。コンビニなどを見ても分かりますが、資本主義は、商品をたくさん作って、たくさん捨てざるをえない社会でもあるわけです。

それとは反対に、服がもしも一種類しかなく、それを国が販売していたなら、競争は起こりませんから、貧富の差は生まれません。

そして、国が工場の生産を統御して、必要な分だけ服を作り、値段も適切に設定すれば、余剰も生まれませんよね。それが社会主義の考え方です。

服も、車も、住居も、食べ物も、すべてがそうして適切なバランスを保っていれば、みんなが平等で幸せな社会になるというわけです。理想論としては、なかなかいいと思います。

ただ、現実にそれを実行したらどうなったかは、ロシアや中国、北朝鮮の歴史を見れば分かりますよね。

「皆が平等」とは名ばかりで、権力は一点に集中してしまい、経済はうまく回って行きませんでした。深刻な食糧不足に悩まされることにもなります。

資本主義は余剰が生まれてしまうというデメリットもありますが、競争社会だからこそ、他社に負けないために品質の向上や価格の低下など、努力を怠らないわけですね。

常により安く、よりいいものが生み出されていくというメリットがあるわけです。資本主義はベストと言えるかどうかは分かりませんが、とりあえずはベターと言えるでしょう。

そうそう、ちなみにですが、社会主義のソ連(おおよそ現在のロシア)を描いた映画で、『運命の皮肉』という映画があります。

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ぼくもまだ観たことはないのですが、NHKのロシア語講座で少し紹介されていたんですよ。ロシアでは毎回決まった時に観るというほど、とても有名なコメディ映画らしいです。

主人公は酔っ払って、全く違う場所へ行ってしまうんですが、自分が住んでいるのと同じアパートがあり、自分の家の鍵で開いてしまうんですね。当然ながらそこには見知らぬ女性が暮らしていて・・・。

いやあぼくもまだ観たことはないんで、なんとも言えませんけども、コメディであると同時に、個性のない同じような建物をどんどん立てた社会主義に対する皮肉があって面白いですね。

少し脱線しましたけども、資本主義と社会主義についてなんとなく分かってもらえたでしょうか。

現在では、日本を含めてほとんどの国が資本主義ですし、社会主義の国でも経済は資本主義を取り入れていたりもしています。

ともかく、少し前の時代にはそうした、みんなが平等の社会主義の国を作ろうという運動が、世界中で盛んになった時期があったんですね。

工場の経営者(ブルジョア)はお金を儲け、労働者(プロレタリア)はいつまでも貧しいという階層を指摘したのがカール・マルクスです。『資本論』が有名ですね。

そうした極端な階層をなくし、誰もが平等な社会主義の国を作るための革命運動が起こるようになりました。そうした人々の考えを、マルクス主義や共産主義と呼びます。

誰かが一人で財産を持つのではなく、みんなで共有しようという共産主義の考え自体は昔からあるものなので呼び方は違いますが、マルクス主義と共産主義はほとんど同じように使われていることが多いです。

マルクス主義や共産主義と聞くと、今ではなんだかちょっとぎょっとするような感じがありますが、革命をして社会を騒がそうというのが目的ではなくて、理想的な国家の樹立が本来の目的なわけですね。

1960年代の日本でも、マルクス主義や共産主義の影響を受けて、学生運動が盛んになりました。いわゆる全共闘の戦いです。大学の入試が中止になったりもしたそうです。

さて、長々と書いて来ましたが、要するに、みんなが平等の社会を作ろうという社会主義の運動をする人々が「左翼」で、1960年代には、日本でも色々と戦いがあったということ。

そして、『優しいサヨクのための嬉遊曲』は、「僕は六〇年代に生まれて、八〇年代に大学生になったわけだから、出遅れた左翼学生とでもいうか、そんなケチな野郎だよ」(20ページ)と主人公が語っているように、1980年代の物語ですから、1960年代以降の「左翼」について語られた物語ということになります。

しかし、実は1980年代の学生たちは最早、戦うべき相手が見つからないんです。

ソ連では色々な出来事が起こっていますが、自分たちと直接的な関係はありませんから、「左翼運動」は、目的のない「左翼運動」になってしまい、言わば「左翼運動」のための「左翼運動」とも言うべき、同語反復(トートロジー)に陥ってしまいます。

だからこそ、「左翼」が本来の「左翼」の意味合いからずれて、新たな表記である「サヨク」になってしまうわけですが、そうした中心が空洞の、運動自体にどことなく空虚さが漂う学生たちの姿を描いた小説です。

作品のあらすじ


『優しいサヨクのための嬉遊曲』には、「優しいサヨクのための嬉遊曲」「カプセルの中の桃太郎」の2編が収録されています。

「優しいサヨクのための嬉遊曲」

こんな書き出しで始まります。

 待ち伏せは四日目に入った。オーケストラ団員である彼女はもうすぐ、この場所に現れるはずだった。練習を終えた彼女はまっすぐ家に帰るため五時にここを通る計算になる。(9ページ)


千鳥姫彦は、一目惚れした彼女を待ち伏せしています。

頭の中で、自分と彼女との対話はどんなやり取りになるか、そして関係性がどんな風に変化していくのかのシナリオを作り上げ、そのシナリオ通りに彼女に声をかけました。そして、喫茶店に誘います。

千鳥はそうして出会った逢瀬みどりと、毎週図書館で会って話をするという、一種のデートの約束を取り付けることに成功しました。

恋をしたことのないというみどりの言葉から、みどりは処女だと推測し、千鳥はみどりのことをバージニヤというあだ名で呼ぶことになります。

文部省の役人をしているというみどりの父を、みどりを縛り付けている仮想恋敵と見て闘志を燃やす千鳥。

千鳥は大学では、左翼運動をするサークルに所属しています。

代表者の外池を筆頭に、メンバーは12人。サークルは、『カスチョール』という機関誌を作ったり、思想を広めるために、色々なキャンペーンをしたりしているんですね。

メンバーの中でも、無理、石切、田畑の3人は、「社会主義道化団」として、「欺瞞的な社会主義や社会主義に泥を塗った権力者たちを馬鹿にして遊ぶことに熱中」(37ページ)しています。

まあ簡単に言えば、有名な社会主義者の面々の悪口を肴に酒を飲んだりするわけですが、ある時、「社会主義道化団」結成一周年を祝うことになりました。

3人は、街中で女の子の品定めをして時間をつぶした後、ストリップ喫茶に行きます。

しかし、思ったよりもお金を取られたり、無理はアドレス帳を落としたりと、ついてないことが続きました。

気持ちの落ち込んだ無理は、ふとこんなことを思いつきます。

 女は裸になると大金が稼げる。服を脱ぐだけでいいのだ。そうすれば少なくとも男は喜び、そのためには金を払う。男も裸になれば、何とか稼げる。喜ぶのはやはり男だ。男のためにズボンをおろせば、負けはたちまち取り戻せるだろう。着ているものを賭ければ負けることはないのだ。(78ページ)


そうして無理は偽名を使って、指名外出制のホストクラブで働き始めました。自衛官の男の指名を受け、無理はホテルへ連れられて行って・・・。

一方、千鳥はバージニヤをサークルの集会に誘いますが、バージニヤは姿を現しませんでした。

バージニヤに電話をかけた千鳥は、自分たちが恋人同士になるという約束を交わしたと、無理矢理バージニヤに思い込ませます。

 バージニヤは千鳥に「恋をする」などといったことはなかった。恋人同士という関係は、今しがた電話ボックスの中でつくられた。彼の迫真の演技によって。彼のシナリオによれば、先ず、言葉のうえで、恋人同士の契約を結び、それを拠り所にして、バージニヤに段階的な要求をしてゆくのである。(96~97ページ)


自分の思い描くシナリオ通りに段階を踏んで、バージニヤを攻略しようとする千鳥。

サークルはやがて世代交代して、体を売って運動資金を稼ぐ無理に受け継がれました。

そして、バージニヤをどうにかしてものにするかに夢中になっている千鳥の心は、左翼運動から離れていって・・・。

「カプセルの中の桃太郎」

こんな書き出しで始まります。

 クルシマは十二歳の時から、原始彫刻の逞しく、美しい性器に憧れを抱いていた。重く、黒光りのする、堅い、天を挑発的に睨む、ゲバ棒のような性器は全能の神に強力なコネを持っているかの如く、不敵な笑いをたたえていた。(あれさえあれば・・・・・・)という思いは夢で合理的に表現された。(135ページ)


クルシマは、自分たちの世代は去勢されたも同然だと思っています。強く屹立した性器はなく、マスターベーション専用の性器しか持っていないと。

反抗らしい反抗を経験せずに成長してしまい、現在では戦うべき相手すら見当たらないのです。ただただポルノ映画のヒロイン宵町しのぶを思ってマスターベーションにふける日々。

自分たちが反抗できなかった理由として、大人たちの欺瞞に惑わされ、管理社会の横暴さに直接ぶつからなかったからだと、クルシマは考えています。

「管理社会には規則があります。規則を守れない人は出ていって下さい」という調子で冷たく事務的に扱われると(もう分別なんてバカらしくやってられるか)となり、定石通り反抗期が訪れる。ところが、クルシマもイノナカもカプセルの中で庇護されていて、直接、冷たい壁に当たることはなかった。彼らの見た管理の壁にはビロードの布が貼ってあり、頬ずりなどしていたのだ。彼らは笑顔の両親や教師にまんまとだまされ、カプセルに軟禁されていたのだ。(153ページ)


クルシマと、友達のイノナカは、盗まれた反抗期を取り戻すことにします。イノナカはハードロックのバンドに加わり、クルシマは貯金をすべて使って250ccのバイクを買いました。

クルシマは委縮した自分の性器の代わりに、人工性器としてのバイクに乗り、町へくり出しますが・・・。

とまあそんな2編が収録されています。「カプセルの中の桃太郎」の方が分かりやすい話ですよね。1960年代には立ち向かうべき権力があって、反抗することが出来たわけです。

しかし、立ち向かうべき権力すら見えなくなった1980年代には、何にも立ち向かえない自分を、去勢された存在のように感じてしまわざるをえなくなりました。

現在ではそれからさらに時間が経ちましたから、何にも立ち向かえない不甲斐ない自分というものに、羞恥心を感じることも、もうあまりないかも知れませんね。

「優しいサヨクのための嬉遊曲」で特徴的なのは、思想以外のことで言うと、とても青臭く、作り物じみた雰囲気が漂う作品であるということです。

バージニヤという人物からは、「女の子」という、一種の記号性以上のものは読み取れず、少しも人間らしい感じはしませんし、千鳥とバージニヤの対話や関係性もあまりにも空想的過ぎます。

そうした部分は、普通だったら小説としての傷になりそうなものですが、「優しいサヨクのための嬉遊曲」の場合は、それはそれでうまく機能しています。

愛と左翼運動を対立する概念を設定しておきながら、どちらにも薄っぺらさが感じられる小説なんですが、愛の部分を純粋な愛ではなく、「愛を描くためだけの愛」とも言うべき、記号的な愛として描いていて、とてもいいと思います。

シナリオを考えてから、そのシナリオ通りに行動しようとする千鳥は滑稽でもあるんですが、ぼくもわりと相手がどんな反応をするか考えた上で話し掛けたりするので、共感できる部分があったりもしました。

明日は、村上龍『限りなく透明に近いブルー』を紹介する予定です。