川上弘美『センセイの鞄』 | 文学どうでしょう

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センセイの鞄 (新潮文庫)/新潮社

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川上弘美『センセイの鞄』(新潮文庫)を読みました。

それがたとえ曖昧な感覚だったとしても、いとも簡単に言葉にしてしてしまえることがあって、また同時に、言葉にしてしまうと安心できる感じがあったりもします。

たとえば、大切ななにか/誰かを失った時、気持ちはとても落ち込みます。どんよりと。きっとその感情は、本当はうまく言語化できないものだろうと思うんです。

でもそれを「悲しみ」と言ってしまえば、その感情は「悲しみ」になります。

同じように、なにかいいことがあった時の気持ちを、「嬉しい」と言ってしまえば、様々な思いの入り混じる複雑な感情だったしても、それは「嬉しい」という感情になります。そんなものだろうと思います。

小説の面白さとはなにか? という問いに対して、「単なる言葉を越えて、より本当の感情に近いものが描かれているもの」というのは、一つの答えになるだろうとぼくは思うんですね。

小説は言葉で紡がれる芸術だからこそ、単なる言葉を越えたものが表現されていてほしいわけです。

人間の感情の中でも、誰かを好きになる感情というのは、おそらく一番言語化は難しくて、「ぼく/わたしのこと、どのくらい好き?」という問いに答えるのは、かなり難しいです。

また、恋人同士という関係性も非常に曖昧なもので、時として、付き合っている/付き合ってないという事実認識さえ、お互いの間でずれがあったりもします。

さて、今回紹介する『センセイの鞄』は、純文学にしては異例のベストセラーになったことで、大きな話題になりましたね。

37歳でいまだ独身の大町ツキコこと〈わたし〉は、いきつけの居酒屋で高校時代の国語の先生だった松本春綱先生と再会します。

30歳と少し離れているということなので、松本先生は70歳前後でしょう。〈わたし〉は松本先生のことを「センセイ」と呼ぶようになりました。

松本先生に関して〈わたし〉はほとんど何の記憶もなく、「センセイこそお変わりもなく」(12ページ)と名前を思い出せないことを誤魔化したその呼びかけが、そのまま定着したんです。

『センセイの鞄』は、〈わたし〉とセンセイとの奇妙な関係性を、季節の移り変わりとともに描いていく小説です。長編であると同時に、短編の連作のようでもあります。

この小説の面白さというのは、〈わたし〉とセンセイの関係性や、2人の間の感情をうまく言語化できない所にあります。

「これは恋愛小説だ」と簡単に言えますし、それは決して的外れではありません。でも、少しずれがあるような気もするんですね。はたして、2人の間にあるのは恋愛感情なのかと。

かと言って、「これは恋愛小説ではない」と否定すると、それはまた違うような感じなんです。

恋愛小説であり、恋愛小説ではない、それでいて、〈わたし〉とセンセイの関係性や感情がしっかり伝わってくる、そういうめずらしい小説なんですね。

たまに「友達以上恋人未満」という言葉を耳にすることがありますが、非常にうまい言葉だと思うんですよ。

なんとなくいつも一緒にいて、一緒にいると楽しくて、でもしっかり約束しあった恋人ではなくて、恋人になるために一歩を踏み込もうとすると、今の関係性が壊れてしまいそうで怖いという、そういう微妙な関係性。

〈わたし〉とセンセイは「友達以上恋人未満」というと少し違うんですが、お互いに一歩を踏み出さない/一歩を踏み出せないという点ではとてもよく似ています。

お互いに約束して、待ち合わせなんかをすれば多分、もう少し厳密な仲になるはずですが、〈わたし〉もセンセイも何の約束もしません。

なんとなくいつものように居酒屋に行って、会う時もあれば、会わない時もあるという、そういう奇妙な関係性なんです。

〈わたし〉とセンセイはキノコ狩へ行ったり、お花見に行ったり、島へ旅行に行ったりしますが、友達でもなく、恋人でもなく、かといって、もはや先生と教え子でもない、なんだか変な関係性がずっと続いていきます。

そんな不思議な2人の関係性を描いた物語。ストーリーラインではなく、そうした関係性が何より魅力の小説ですから、物語はゆったりと進んでいきます。

一気に読むのではなく、少しずつ読んでいくと、より一層魅力が感じられる小説のように思います。

作品のあらすじ


駅前の一杯飲み屋で〈わたし〉は背筋を反らせ気味に座ってるセンセイとたまたま隣り合わせました。

「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」カウンターに座りざまにわたしが頼むのとほぼ同時に隣の背筋のご老体も、
「塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆」と頼んだ。趣味の似たひとだと眺めると、向こうも眺めてきた。どこかでこの顔は、と迷っているうちに、センセイの方から、「大町ツキコさんですね」と口を開いた。驚いて頷くと、
「ときどきこの店でお見かけしているんですよ、キミのことは」センセイはつづけた。
「はあ」曖昧に答え、わたしはセンセイをさらに眺めた。(11ページ)


たまに見かける〈わたし〉にどこか見覚えがあると思ったセンセイは、卒業アルバムで確認したらしいんですね。センセイは〈わたし〉の高校の国語の先生だったんです。

1回目に会った時はセンセイがお金を払い、2回目は〈わたし〉が払い、3回目からはそれぞれ自分の分は自分で払うようになりました。2人は、なんとなく似た気質を持っているようです。

たまたま会ったら一緒に飲むことがあるという、そうした気が置けない、ゆるやかな関係性が続いていきますが、ある時〈わたし〉とセンセイは、口をきかなくなってしまいました。

そのきっかけがまたなんともおかしいんです。居酒屋のラジオで野球中継をしていたんですが、センセイは巨人ファンなんですね。ところが、〈わたし〉は巨人が嫌いなんです。

なので、巨人の選手が活躍するとセンセイは喜び、〈わたし〉は内心腹立たしく思うわけです。

その日の試合は巨人が勝ったんですが、〈わたし〉が巨人が嫌いだと知ると、より一層その勝利を喜ぶセンセイ。

腹を立てた〈わたし〉は巨人をののしり、それ以来お互いに口をきかなくなってしまいました。なんとも大人げない2人ですよね。

〈わたし〉は仕事の関係で合羽橋に行き、センセイへのプレゼントに最適なおろし金を買いますが、そういう状況なので、なかなか渡すことが出来ません。

会えないと思うと会いたくなり、話せないと思うと話したくなるもの。

しかし、向こうがいつまでも冷たい態度を取るのだからと、居酒屋で会ってもお互いに見て見ぬ振りを続けます。はたして・・・。

さて、センセイがキノコが好きだと知った居酒屋の主人のサトルさんに誘われて、〈わたし〉とセンセイはキノコ狩に出掛けたりします。

こうした季節ならではの行事が描かれていくのも、この小説の大きな魅力で、春になると今度はお花見に行きます。

それは学校前の土手で行われるお花見で、退職した先生や卒業した生徒も集まります。

〈わたし〉が在学中の頃から、大人な雰囲気の女性として、男子生徒からも女子生徒からも人気のあった美術の石野先生と、センセイが親しげに話しているのを見て、〈わたし〉は少し複雑な気持ちになりました。

そんな〈わたし〉の所へやって来たのは、当時何度かデートをしたことがある同級生の小島孝。

実は〈わたし〉の友達と結婚していたけれど離婚したという小島孝は、「大町さ、抜け出して飲みなおさない」(133ページ)と誘って来ます。

センセイへのあてつけのようにお花見を抜け出した〈わたし〉は小島孝とバーに行きました。

ただなんとなく一緒にいるだけでいいという、曖昧なセンセイとの関係とは正反対に、小島孝が相手の場合、大人の女性としての役割を果たさなければなりません。

受け入れるにせよ、断るにせよ、小島孝のアプローチに一つ一つ答えを出していかなければならないわけです。

そしてそれは、恋愛体質ではない〈わたし〉にとって、かなりエネルギーがいることでもあるんですね。

小島孝に女性として求められて悩む一方で、つかみどころのないセンセイのことを色々と考えたりもする〈わたし〉。

やがて〈わたし〉は、センセイと島へ旅行に行くのですが、部屋は別々で、関係は一向に進展する気配を見せません。

〈わたし〉はこんな風に考えます。

 いつの間にやら、センセイの傍によると、わたしはセンセイの体から放射されるあたたかみを感じるようになっていた。糊のきいたシャツ越しに、センセイの気配がやってくる。慕わしい気配。センセイの気配は、センセイのかたちをしている。凛とした、しかし柔らかな、センセイのかたち。わたしはその気配をしっかりと捕えることがいまだにできない。摑もうとすると、逃げる。逃げたかと思うと、また寄りそってくる。
 たとえばセンセイと肌を重ねることがあったならば、センセイの気配はわたしにとって確固としたものになるのだろうか。けれど気配などというもともと曖昧模糊としたものは、どんなにしてもするりと逃げ去ってしまうものなのかもしれない。(209ページ)


一番近くにいても、一向につかまえられないセンセイ。

やがて〈わたし〉とセンセイは、不思議な夢を見て・・・。

いつも一緒にいるけれど、この穏やかで自然な関係が変化するような一歩を踏み出せない〈わたし〉とセンセイの奇妙な関係性は、変化する時が来るのか!?

とまあそんなお話です。季節の移り変わりや、身近にある素敵な出来事を、ゆったりした気持ちで感じることのできる小説だと思います。

一つ一つを短編としてとらえるならば、最も優れているのは中盤辺りにある「お正月」でしょう。センセイの不在が色濃く出た章で、〈わたし〉の人生に潜む悲哀がよく表されています。

〈わたし〉は台所の蛍光灯を変えようとして失敗し、割ってしまうんですね。そして地面に散らばった破片で足を切ってしまいます。

それは日常的な失敗ですが、〈わたし〉の人生の失敗のイメージとも重なります。

今まで結婚しなかったことは、必ずしも失敗ではないですが、兄一家の団欒など、正月によって見せつけられる”家族”のあたたかさは、必然的に〈わたし〉の恋愛の失敗を連想させ、それは〈わたし〉をどことなく淋しく切ない気持ちにさせてしまうんです。

夜道を歩いていると、心細くなってしまった〈わたし〉。頭に浮かんで来るのはセンセイのこと。

 センセイ、とつぶやいた。センセイ、帰り道がわかりません。
 しかしセンセイはいなかった。この夜の、どこに、センセイはいるのだろう。そういえば、センセイに電話をしたことが、なかった。いつも、ふと会って、ふと一緒に歩いた。ふと一緒に酒を飲んだ。(中略)
 センセイとは、さほど頻繁に会わない。恋人でもないのだから、それが道理だ。会わないときも、センセイは遠くならない。センセイはいつだってセンセイだ。この夜のどこかに、必ずいる。(99ページ)


普段は考えなくても、時々ふと淋しくなってしまう、その気持ちは何となくよく分かります。この後の展開も素晴らしくいいんですよ。

〈わたし〉とセンセイの関係性はうまく説明できないんですが、うまく説明できない所に、この小説の何よりの魅力があるように思います。

恋愛のようでいて、恋愛ではなく、恋愛ではないようでいて、恋愛のような、その奇妙な関係性をぜひ味わってみてください。とても不思議な感覚の小説です。

明日は、夏目漱石『』を紹介する予定です。