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ジョルジュ・シムノン(長島良三訳)『ブーベ氏の埋葬』(河出書房新社)を読みました。
「シムノン本格小説選」の1冊です。「シムノン本格小説選」は、「メグレ警視シリーズ」で有名なジョルジュ・シムノンの選集です。
「本格小説」と銘打っているわけですから、ミステリではなく、純文学よりの作品を集めたということなのでしょう。ただ、ミステリ要素がまるでないというわけではありません。
たとえば今回紹介する『ブーベ氏の埋葬』はトリックや、犯人探しという感じはないですが、物語の中心にささやかな謎があって、それが読者を惹きつける大きな吸引力になっています。
「シムノン本格小説選」はもしかしたら、ミステリ読みからしても、文学好きからしても、量・質ともに物足りない感じがあるかも知れません。ミステリ、文学、そのどちらの要素も濃厚さには欠けます。
しかし逆に言えば、ミステリも文学も難しいと感じるような、気軽に小説を楽しみたい読者にとっては、最適な選集なのではないかと思います。
200ページ前後とページ数も少ないですし、文体や構成はすっきりとしていて読みやすいです。なにより、適度な謎が物語の世界にすっと入り込ませてくれます。
ちなみにぼくにとっての「シムノン本格小説選」の何よりの魅力は、どの巻もジャケットがすごくいいことです。もしかしたら、ここ数年で一番好きな装丁かも知れません。というわけで、これから読んでいくのが楽しみな選集です。
さて、そろそろ『ブーベ氏の埋葬』の内容に入っていこうと思いますが、1人の老人の死から物語が始まります。タイトルの通り、ブーベ氏が亡くなるわけです。
亡くなったら、埋葬をしなければなりませんよね。やがて、独り身だと思われていたブーベ氏の家族が名乗り出て来ます。ところが、ブーベ氏はブーベ氏ではないというんですね。
約20年前から行方不明になっているアメリカ人の大富豪サムエル・マーシュであると。ブーベ氏の埋葬に関して、これで一件落着と思いきや、どうやらマーシュも本名ではないらしいことが分かって・・・。
人間というのは、色々な面を持つものです。たとえば学校の先生は、生徒たちにとっては先生ですが、奥さんにとっては夫であり、子供にとっては父親ですよね。それぞれの見方で、見え方も違ってくるものです。
どんなに親しい家族や恋人、友達でも、他人のことを100%知ることは不可能ですよね。別段隠そうとはしていなくても、それぞれの立場で知れることには限界があります。
親しい相手ですらそうなのですから、近所に住んでいる顔見知りで、挨拶をする間柄の人は、実際にどんな人かは分かりませんよね。
ブーベ氏が実はブーベ氏ではなかったと知った時の、周りの人々の驚きというのは、もちろんブーベ氏には隠されていた秘密があったことに対しての驚きです。
ただそこには、人間というものは、いかに身近な他人について知らないかということの驚きが重なるようにも思います。
作品のあらすじ
強い日差しの照りつける、セーヌ川沿いの道で1人の老人が亡くなりました。
老人は石の欄干に片肘をつき、青い目にはいささかの驚きも表さずに、立ったまま死んだにちがいない。彼はぐらつき、ボール箱を引きずりながら歩道に倒れた。ボール箱のなかの版画が彼のまわりにばらばらと散らばった。
雄犬はそんなことには頓着せず、交尾をつづけている。古本屋のおかみは赤い毛糸の玉を膝から転がり落とすと、あわてて立ちあがり、叫んだ。
「ブーベさん!」(6~7ページ)
ブーベ氏の暮らすアパートの管理人であるマダム・ジャンヌの元へ警察がやって来ます。マダム・ジャンヌは、ブーベ氏の元を訪ねてくる人はいなかったと話します。
誰も引き取り手がいなければ、ブーベ氏の死体はモルグ(死体保管所)に運ばれることになるんですが、それはあんまりだと言うことで、マダム・ジャンヌはブーベ氏の死体を引き取ります。
みんなに寄付を募って葬式をあげようとしていると、新聞でブーベ氏の死亡記事を見つけたメアリー・マーシュという女性が訪ねて来ました。ブーベ氏は失踪していた夫ではないだろうかというんですね。
右足にある星形の傷跡から、ブーベ氏は約20年前から行方不明になっていたサムエル・マーシュという、アメリカの大富豪であることが明らかになります。
奥さんのメアリーは、別に愛しているから夫を探していたわけではなくて、その莫大な資産を受け継ぎたいと思い、弁護士を雇って色々と画策していたような人物です。
やがてブーベ氏とメアリーの間に生まれた娘とその夫もお金目当てでブーベ氏の死体を見にやって来ますが、どうやらメアリーはこの娘夫婦と確執があるようです。
ムッシュー・ボーペールという刑事が、ブーベ氏について調べ始めます。すると、本物のブーベ氏は、2年前に亡くなっていたことが分かりました。
ブーベ氏はサムエル・マーシュということで決着しそうになりますが、マーシュではないと証言する男が現れます。かつて一緒に会社を経営していたジョリ・コステルマンです。
「まず、新聞の言うことを信じるならば、あなた方が突きとめたように、彼はブーベではない。よろしいか、それが第一点。つぎに、わしは十年前に彼を発見したのだが、マーシュじゃなかった。それが第二点。(中略)最初の結論、従ってミセス・マーシュはミセス・マーシュではない。なぜなら、二人がパナマで結婚したのは、この名前であるからだ。偽物の戸籍のもとで結ばれたこの結婚は、必然的に無効ですな。それ故に、マドモワゼル・マーシュはマドモワゼル・マーシュではない」(86ページ)
マーシュが失踪した時に、コステルマンがマーシュについて調べたら、マーシュだと思っていた男は、マーシュ本人ではなかったんですね。
ブーベ氏はブーベ氏ではなく、マーシュでもありませんでした。
ボーペール刑事は、ブーベ氏の死体に会いに来て、スミレの花束を追いていった謎の老女が、ブーベ氏のことを知っていると見て、その行方を探し始めます。
そんな中、ブーベ氏の部屋に何者かが侵入したらしく、切り裂かれたベッドのマットレスからは、大量の金貨が見つかって・・・。
はたして、ブーベ氏とは一体何者なのか!?
とまあそんなお話です。1人の老人の死から物語が始まり、やがてその数奇な人生が少しずつ明らかになっていくという、ちょっと不思議な物語です。
ブーベ氏にまつわる事実は、徐々に明らかになっていきますが、それは玉ねぎの皮を向いていくようなものであって、ブーベ氏がもういない以上、ブーベ氏の本質に到達する術はもうないとも言えます。
いくら外側の事実が分かった所で、ブーベ氏の内面、何をどんな風に考えていたかまでは分からないんですね。
ブーベ氏が一体何を思っていたのか、そんなことを考えてみるのもまた面白いかも知れません。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
明日は、山本兼一『利休にたずねよ』を紹介する予定です。