グレアム・グリーン『情事の終り』 | 文学どうでしょう

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情事の終り (新潮文庫)/新潮社

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グレアム・グリーン(田中西二郎訳)『情事の終り』(新潮文庫)を読みました。

「情事」という言葉からは、ぼくは2つの印象を受けます。それが束の間のものであること、そして、なにかしらの禁忌(タブー)を犯しているものであること。

公明正大な男女関係というのはあまりないような気はしますが、ともかく、後ろ暗いものがなければ、2人の関係は「恋愛」であって、「情事」にはならないような気がするんですね。

なにかしらの障害があって、そして誰かの目を盗んで、短い間に密会する2人にこそ、「情事」という言葉はふさわしいのではないでしょうか。

今回紹介する『情事の終り』は、作家である〈私〉と人妻サラァとの不倫の関係を描いた小説です。サラァの夫ヘンリの目を盗んで、2人は愛し合います。激しい愛に溺れていく〈私〉とサラァですが、突然、サラァは〈私〉から離れていってしまい・・・。

何故、サラァは急に〈私〉から離れていってしまったのか?

その理由については、この物語の重要な核なので、ここでは書きませんけれど、ミステリではないので、それはあまり重要ではありません。

むしろ、その理由に付随する状況の方が重要で、漠然とした言い方をすれば、サラァは「信じたいのに信じることができない」と「信じられないけれど信じざるをえない」という、両極端の考えの間で板ばさみになってしまいます。

そうしたサラァの個人的なジレンマが、やがては壮大なテーマに結びついていくという物語です。

この小説を最後まで読むと、実はこれは単に不倫の恋を描いた物語ではないことが分かります。おそらく多くの方が、深い感銘を受ける小説なのではないかと思います。

一口に愛と言っても、様々な愛の形があります。恋人を自分のものにしたいという欲求も愛ですし、母親が子供を包み込むのも愛です。誰かを守るのも愛ですし、また、誰かを傷つけてしまう愛もあることでしょう。

『情事の終り』は、単に恋愛の愛を超えた愛の形が描かれた物語です。あまり先に情報を知ってもらいたくないので、漠然とした言い方をせざるをえないんですけれど。

感覚として、ぼくは理解できないものがあったりもしたんですが、起こる出来事なり、それぞれの登場人物の考えなりが丁寧に描かれていて、とても深い印象が残る小説でした。

作品のあらすじ


〈わたし〉は、「愛の記録であるよりは遙かに勝れて憎しみの記録」(8ページ)であるこの手記を、雨の日の公園で、ヘンリと1年半ぶりに再会し、飲みに行く所から書き始めます。

ヘンリは高級官吏なのですが、小説家の〈わたし〉は、かつて高級官吏を主人公にした小説を書こうとしていたことがあり、その参考にするためにヘンリと交際を始めたんですね。

「官吏の妻の知識を手がるに小説の材料に利用してやろうという冷血な意図を抱いて」(13ページ)〈わたし〉はヘンリの妻であるサラァに近づきます。ところが〈わたし〉は、いつしかサラァに心惹かれていきました。

〈わたし〉の小説が映画化されたのを、〈わたし〉とサラァは一緒に観に行って、その後で食事をします。テーブルの下で手を握り合う2人。

 言い寄るとか、誘うとかいうことは少しもなかった。わたしたちは皿の上の美味いステーキの半分と、壜のなかのクラレットの三分の一を店に残して、同じ思いを心に抱いてメイドン・レインへ立ち出でた。そっくりこの前と同じ場所、入口と格子蓋とのわきで、わたしたちはキスをした。わたしは言った。「ぼくは好きになった」
「あたしも」
「帰るわけにはゆかなくなった」
「ええ」(68ページ)


こうして2人の秘密の関係は始まります。その頃のイギリスは戦争中で、突然避難しなければならないことがあったので、家に帰るのが遅くなる理由を作りやすいこともあり、わりと逢引がしやすい状況だったんですね。

しかし、爆撃が近くで起こり、逢引の最中に〈わたし〉が怪我をしてしまうこともありました。

サラァは人妻ですから、〈わたし〉は露骨に嫉妬して、サラァを苦しめます。〈わたし〉はサラァを自分だけのものにしたいんですが、なかなかそううまくはいきません。

燃え上がるような愛で結ばれた〈わたし〉とサラァでしたが、ある時サラァは「そんなに怖がらなくてもいいのよ。愛は終るものではありませんもの。ただおたがいに会えなくなるというだけで・・・・・・」(104ページ)という言葉を残して、2人の関係を突然絶ってしまいます。

絶望と嫉妬、自分を裏切ったサラァへの憎しみを抱く〈わたし〉。しかしそのまま時は流れ、サラァと別れてから1年半後に、偶然サラァの夫ヘンリと雨の日の公園で再会したというわけです。

〈わたし〉はヘンリから、どうやらサラァが浮気をしているらしいのだが、探偵に調査を依頼するかどうかを迷っているという話を聞きます。サラァの浮気相手が気になるのは、〈わたし〉も同じです。むしろ、ヘンリ以上の苦しみがあるぐらいです。

そこで〈わたし〉は、探偵にサラァが誰と会っているのかを調べさせることにします。そして探偵を介して、サラァの日記を手に入れました。

はたして、日記に記されていた、2人の別れに関する驚くべき真実とは・・・!?

とまあそんなお話です。わりとストーリーを中心に据えた紹介の仕方をあえてしましたが、物語の本質は、2人の情事や別れに潜んだミステリ要素にあるのではなく、また別にあります。まあ簡単に言えば、「信じるか、信じないか」ですね。

〈わたし〉の書く手記の中で、印象的なフレーズを抜き出しておきます。

わたしたちのこの物語を書きはじめたとき、わたしは憎しみの記録を書いていると思っていたが、その憎しみはどういうわけか置き忘れられてしまい、いまわたしにわかっていることといえば、あの数々の過ちや頼りなさにもかかわらず、彼女は誰よりも善い人間だったということだけである。とにかくわたしたちのうちの一人だけは彼女を信じるようになったのはいいことだったーー彼女自身は決して自分を信じなかったのである。(200ページ)


「憎しみの記録」とは、誰に対しての「憎しみ」だったのでしょうか。その憎むべき相手が分かった時、物語の深みは増し、サラァ自身は信じていなかった「善い人間」であるサラァの姿が浮かび上がります。

物語は過去と現在が交錯するやや複雑なものですし、テーマ的なとっつきづらさはある小説なんですが、ぐいぐい読ませる小説でもあるので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

ぼくもグレアム・グリーンは、もう少し色々なものを読んでみようと思っています。

ちなみに、レイフ・ファインズとジュリアン・ムーアが主役の2人を演じた映画版『ことの終わり』もあります。

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わりと原作に忠実に作られていた映画だったと思います。

おすすめの関連作品


リンクとして、本を1冊、映画を1本紹介します。

恋人が突然離れていってしまうというテーマをさらに限定して、理由も分からず、突然恋人が姿を消してしまうというものを、それぞれ選んでみました。

まずは本から。もう随分前の話ですが、佐藤正午の『ジャンプ』は、結構話題になっていた本だと思います。ぼくはまだ観ていませんが、映画化もされましたね。

ジャンプ (光文社文庫)/光文社

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恋人が突然姿を消してしまうというミステリ的なテーマを、やわらかく爽やかな、青春小説のようなタッチで描いた作品で、読みやすく面白い小説だと思います。なぜ彼女は、突然姿を消してしまったのか?

続いては映画を。似たようなテーマのものとしては、ジョシュ・ハートネット主演の『ホワイト・ライズ』があります。

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自分の前から突然姿を消したかつての恋人を目撃して・・・というお話。『ホワイト・ライズ』は、『アパートメント』というフランス映画のリメイクのようですが、その元になった映画をぼくは残念ながらまだ観てません。

どちらの作品も、単に失踪理由の謎解きが面白いというだけではなく、恋人を失った主人公の心理や、周りの人々との交流など、人情話的な面白さがあるように思います。機会があれば、読んだり観たりしてみてください。

明日は、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』を紹介する予定です。