三島由紀夫『潮騒』 | 文学どうでしょう

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潮騒 (新潮文庫)/三島 由紀夫

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三島由紀夫『潮騒』(新潮文庫)を読みました。

もしも三島由紀夫の小説を「難しくてなんだかよく分からない」と感じて挫折してしまった方がいたら、ぜひこの『潮騒』を読んでみてください。

『潮騒』は、ある小島を舞台にした青春小説で、文体はとても読みやすいですし、なによりエンタメとして抜群に面白いんです。文学的な衝撃度とはまた別の次元で、ぼくはとても好きな作品です。ぼくの中で鮮やかな印象がずっと残り続けています。

みなさんは「青春」と聞いてなにを思い浮かべますか。やはり甘酸っぱいような、淡い恋心が一番しっくりくるのではないでしょうか。大人の恋愛と青春時代の淡い恋心との違いについて、少し考えてみたいと思います。

遠い所から話を始めます。まずは本編の文章の引用から。

『潮騒』の舞台は島なので、子供たちは物事をよく知りません。修学旅行で都会に行って馬車を見ると、「ほう、大きな犬が雪隠を引っぱって走っとる!」(58ページ)と叫んでしまうくらいです。犬ではなく馬ですし、雪隠(せっちん)というのは便所のことですから、全然違いますよね。

そうした物事を知らない子供たちの様子について、こんな風に書かれています。

 島の子供は、教科書の絵や説明で、本物の代りにまず概念を学ぶのであった。電車や大ビルディングや映画館や地下鉄を、ただ想像の中からつくりだすことはどんなに難かしかったろう。しかしさて実物に接してのちは、新鮮なおどろきのあとで、今度はその概念の無用さがはっきりして来て、島で送る永い一年のあいだに、今も都会の路上にさわがしく行き交うているであろう電車のことなどは、思ってもみなくなるのであった。(58ページ)


「電車や大ビルディングや映画館や地下鉄」を想像したものと、それから実際に見たもの、この2つの違いはそのまま、青春時代の淡い恋心と大人の恋愛の対比に重なるように思います。

男女が出会って、関係を構築していくのが大人の恋愛です。性的関係も含めて、実際に起こる様々な出来事が重要となってきます。一方で、青春時代の淡い恋心というのは、実際の関係ではなく、想像の要素が極めて重要になるんですね。

それは「片想い」というものにとてもよく似ています。自分の好きな人を「片想い」で見つめていたとしますね。その気持ちというのは、実際の相手との関係性ではなく、想像上のものが強いはずです。

青春時代の淡い恋心というのは、「片想い」にせよ「両想い」にせよ、言ってしまえば、独りよがりの感情を勝手に持っている段階です。関係が深まるにつれ、「自分の想像上の相手」と実際の相手との差は埋められていきますが、その一歩手前の段階と言えます。

デートでたとえてみれば、分かりやすいかもしれません。恋人とのデートのことを想像するのが、青春時代の淡い恋心だとすると、実際のデートが大人の恋愛だと。

もちろん大人の恋愛の方が、現実の出来事ですからいいわけですが、それは同時に無限の可能性の中から、なにかを限定してしまうことでもあります。失敗や幻滅がそこにはあるかもしれませんよね。

空想上の電車と、本物の電車とはどちらがいいでしょうか。もちろん本物の電車の方が本物ですから、考えるまでもないようなものですけれど、空想上の電車のイメージの膨らみは、それはそれで面白いものがあるとぼくは思うんです。

ひょっとしたら、本物の電車よりももっといいものかもしれないですよね。けれど、一度本物を見てしまったら、二度と空想上の電車を思い出すことはできません。過ぎ去った青春がもう戻って来ないのと同じように。

『潮騒』は、新治と初江という若い2人のラブ・ストーリーです。青春小説なので、ラブ・ストーリーの一歩手前という感じですけど、まあラブ・ストーリーです。しかし、初江の父親は2人の仲を許さず、2人を引き裂こうとして・・・というお話です。

愛しあう男女が引き裂かれそうになるというテーマは、『ロミオとジュリエット』の時代からの鉄板ネタというか、面白くないわけがないんです。読者がそのカップルに感情移入すればするほど物語は面白くなります。

新治と初江というのは、清く純粋で、都会の若者とは少し違います。それだけに応援したくなるというか、とても好感の持てる感じです。

「青春」の青はまだ熟さない果実を連想させますが、恋愛の仕方もまだ分からないような男女が惹かれあう様子というのは、ぎこちないながらも、それはやっぱり鮮烈で美しいものなんです。

あらすじを読んで、興味を持ったらぜひ読んでみてください。シンプルなだけに、とても面白い小説ですよ。

作品のあらすじ


「歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である」(5ページ)というのがこの小説の書き出しです。海に囲まれた小さな島が舞台となります。

日焼けした18歳の若者が、考えごとをしながら、でこぼこした坂道を登っています。手にはヒラメをぶらさげて。灯台長に好意で魚を届けに行くんです。

この若者が新治ですが、なにを考えているかというと、浜辺で見た、見知らぬ少女のことです。小さな島ですから、新治の知らない人はいないんですが、見たことのない少女なんですね。

やがて噂話でその少女が誰だか分かります。昭爺こと宮田昭吉の娘、初江らしいと。宮田昭吉は、船を使った運送業を営んでいて金持ちですし、なにより「獅子の鬣のような白髪をふるい立たせている名代のがみがみ屋」(20ページ)なので、周りからは少し怖れられている存在です。

初江は今まで養女に出されていたんですが、一人息子が亡くなり、3人いる他の娘はもう嫁にやってしまっているので、初江を呼び戻して、立派な婿を取ろうというわけです。

新治は金持ちではないので、初江のことを遠い存在だと思います。ただ、初江の名前を聞くと、なんだか頬がほてり、鼓動が早まります。なぜそうなるのか新治は分からないので、戸惑います。もちろん、恋ですよね。

新治は迷子になって泣いていた初江に道を教えてあげ、初江は新治の落し物を届けます。そうして2人の距離は急速に近づいていきます。夜の浜辺。笑いすぎて胸が苦しいといった初江の胸を思わずおさてしまった新治。2人の顔がそっと近づいていって・・・。

新治のことが好きな女の子がいます。東京の学校に行っている千代子。千代子の話を耳にした初江は、腹を立てて歩いて行きます。その場面の文章が印象的です。

「おーい、おーい」
 それでも少女は振向かない。仕方なしに若者は少女のあとを黙ってついて歩いた。
 道は松林に包まれて暗く、険しくなる。少女は小さな懐中電灯で先を照らして歩き、その歩みは遅くなって、いつしか新治が先になった。軽い叫声と共に、懐中電灯の明りは、とびたった鳥のように、急に松の幹から梢へ翔けた。若者は機敏にふりむいた。そして転んでいる少女を抱き起した。(54ページ)


『潮騒』の文章はとても読みやすい文章ですが、三島由紀夫ならではというか、こうした印象的な文章もいくつかあります。場面としては、初江が転んだだけですが、それと同時に揺れた懐中電灯の光をこんな風に表現しているんですね。

この小説で最も有名なのは、焚き火の場面だろうと思います。映画化されたことによって有名になって、パロディのような形で使われることがたまにあります。

嵐が来て漁が中止になったので、新治と初江はある廃屋で待ち合わせをします。外は激しい風雨。焚き火をして、初江を待っている内に、新治はうつらうつらします。

そしてふと気がつくと、焚き火の向こう側に裸の初江の姿がありました。濡れた体と服を新治が起きる前に乾かそうと思ったんですね。

恥ずかしがる初江に言われて、新治も裸になります。激しい嵐。燃えさかる焚き火の炎。裸の美しい男女。初江はこう言います。「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」(79ページ)

やがて2人のことが、初江の父昭吉の耳に入り、怒った昭吉は初江を厳しく監視するようになります。2人はまったく会うことができなくなってしまいます。友達の助けを借りて、なんとか手紙のやり取りを続ける2人。

そして初江の婿候補で村の名門出の安夫は、初江を手に入れようと画策し・・・。はたして新治と初江の恋の行方は!?

とまあそんなお話です。新治のことが好きな千代子、初江のことが好きな安夫が、2人の恋路を邪魔する形になります。

漁が中心となる生活風景は、なかなか馴染みのないものですし、新治と初江はそうした海のある風景で育ったので、いわゆる普通の若者とは少し違います。なので、普通の「恋愛」とはちょっと違った感じがあります。

2人の心の結びつきの強さは本能的というか、野生的な強さがあるんですね。それでいて、2人の関係には初々しいぎこちなさと、純粋な美しさがあります。それがとても印象的で、思わず物語に引き込まれてしまいます。

ストーリーとして面白い小説です。興味を持った方はぜひ読んでみてください。恋を恋とすら知らない男女の青春を、みずみずしく描き出した、そんな小説です。