カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』 | 文学どうでしょう

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タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)/カート・ヴォネガット・ジュニア

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カート・ヴォネガット・ジュニア(浅倉久志訳)『タイタンの妖女』(ハヤカワ文庫SF)を読みました。

カート・ヴォネガットという作家をご存知でしょうか。熱烈なファンが多い作家ですが、初めて名前を聞いたという方も多いのではないかと思います。

村上春樹がヴォネガットのスタイルに非常に大きな影響を受けていると聞くと、興味を持ってもらえるかもしれませんね。いい機会なので、ぜひ名前だけでも覚えていってください。

正直なことを書くと、ぼくはそれほどヴォネガットのファンというわけではありません。

ぼくが最も好む小説のスタイルというのは、イギリス文学の伝統的な長編小説のスタイルです。ジェイン・オースティンやチャールズ・ディケンズなどがそうです。

時系列が前後せずに、極端な言い方をすれば、主人公が生まれたところから始まって、死ぬところで終わるような物語。限定された登場人物の中で、その人物の感情や周りの人々との関係が変化していくのがなにより面白いです。

もちろんそうしたスタイルは時に退屈さに結びついてしまうんですが、文学技法のことなど余計なことを考えずに、ぐいぐい読んでいけるのがいいんですね。

ヴォネガットのスタイルは、それとは真逆のスタイルといってよいと思います。必ずしもばらばらの時系列というわけではないですが、色んな場所でのエピソードが集まって、1つの小説になっている感じはあります。

一本芯の通った物語ではなく、ある意味ではパッチワーク的なそのスタイルを、強引に成立させているのが、カート・ヴォネガットの荒唐無稽なユーモアの力です。

言わばすごくおしゃれなほら話を読んでいるような、そんな作風なんです。ちょっと面白そうでしょう?

小説のスタイルとしては、とりわけファンではないにもかかわらず、やはりそうしたヴォネガットの魅力というのはひしひしと感じます。とても興味深い作家だと思います。

じっくりとヴォネガットの作品を読み返そうと思っていたんですが、あっという間に2月の〈SF小説月間〉は終わってしまいました。なんだかんだで、あんまりSFは読んでないような・・・。

『タイタンの妖女』というのは、非常にSF的であり、同時にSF的ではない作品です。

火星や水星、土星の衛星であるタイタンが出てきます。現れたり消えたりする不思議な男と犬も出てきます。そうした宇宙を舞台にした設定はたしかにSF的です。

ところが、作中で描かれる「宇宙のさすらい人」の物語がぼくら読者に胸に訴えかけるのは、SF的な乾いた感じというよりは、もっとずっと、生き生きしたものなんです。

これは本当に説明しづらいんですが、友情に関して、あるいは人間が生きるということに関して、非常にぐっときます。涙がほろりと出そうになるくらい。

映画なんかでよくあるじゃないですか。物語の中で悲しいことが起こり、「ほらここが泣くところですよ」と言わんばかりに大音量で壮大な音楽が流れ出すことが。

もちろんそうした演出による感動も、それはそれでいいんですが、『タイタンの妖女』で特筆すべきなのは、そうしたぐっとくる場面が、徹底してユーモアあふれる感じで描かれていることです。

コミカルさとはやや違いますが、すごく軽い感じで書いてあるんです。表面上はギャグみたいなテンポで進んでいき、なおかつそこにぐっと感情が揺さぶられるという、かなり珍しい小説なんですね。

基本的には、マラカイ・コンスタントという青年が、ある男の予言に翻弄される形で、様々な惑星を旅させられてしまうという物語です。

物語の後半では、地球や人類に関してのある秘密が現れます。この秘密も荒唐無稽でとても面白いんですよ。そして、サロという存在が出てくるんですが、このサロにまつわるエピソードがぼくは好きです。

作品のあらすじ


人々がある家の前に集まっています。「ひとりの男とその愛犬が、まもなく実体化、つまり、無の中から出現しようとしている」(13ページ)からです。

そんな不思議なことができる人物の名前は、ウィンストン・ナイルズ・ラムファード。ある時、自家用宇宙船で、犬と一緒に時間等曲率漏斗(クロノ・シンクラステイツク・インファンデイブラム)の中に飛び込んでしまったんです。

この時間等曲率漏斗の説明が、『いろいろなふしぎと、なにをすればよいかの子ども百科』第十四版から引用されます。こうした架空の本から引用するというスタイルも、ヴォネガットの大きな特徴です。

時間等曲率漏斗について詳しく説明はしませんが、とにかくラムファードと犬は、定期的に現れたり消えたりするようになってしまったと考えてください。

ラムファード夫人は、それを人に見せたがらないので、どんなに偉い人から見たいという問い合わせがあっても、すべて拒絶してきました。そうできるだけの、財産と地位を持っているんです。

初めて招待されたのは、「全米一の大富豪でーーかつ、悪名高い女たらし」(17ページ)のマラカイ・コンスタント。

マラカイ・コンスタントは、招待状に入っていた鍵を使い、「不思議の国のアリスふうの門」(15ページ)を通り抜け、屋敷に入り、実体化したラムファードと会います。

ラムファードがマラカイ・コンスタントを招いたんですね。ラムファードは、未来が見えるようになっているんです。

正確に言うと、過去も現在も未来もラムファードの中ではないようなものなんですが、ともかくラムファードはマラカイ・コンスタントに予言をします。

自分の妻、ラムファード夫人と火星で結婚し、息子クロノが生まれると。その後、水星に行き、地球を訪ねたあと、最終目的地であるタイタンに行くことになるだろうと。

マラカイ・コンスタントは一笑にふします。そんなことが起こるわけがないと。ラムファードは予言を残すと消えてしまいます。こんな風に。

 ウィンストン・ナイルズ・ラムファードはゆっくりと消失をはじめた。消失は指先からはじまって、にやにや笑いで終わった。にやにや笑いは、全身が消えたあとも、しばらくあとに残っていた。
「では、タイタンで会おう」と、そのにやにや笑いがいった。やがて、それも消えていった。(57ページ)


ここでざっくり省きますが、全米一の大富豪マラカイ・コンスタントは一文無しになってしまいます。このまま地球にいれば、懲役など法的な責任をとらなければならないおそれがあります。

そんな絶望的な状況のマラカイ・コンスタントの前に2人組が現れ、火星での陸軍中佐の地位を提案します。一方、同じ2人組がラムファード夫人の前にも現れて・・・。

物語は火星の兵隊アンクの話になります。アンクは記憶がないんです。アンクは上官の命令に従って、悲しそうな顔をした「柱に縛られた赤毛の男」(147ページ)の首を締めて殺します。アンクは隊列に戻り、軍隊は行進を続けます。

アンクはなにかを考えようとすると、頭がとても痛むことがあります。アンクは赤毛の男が死ぬ前に言い残したことに従って、手紙を手に入れます。「親愛なるアンク」から始まる手紙。

その手紙の主は、アンクの親友はストーニイ・スティヴンスンだと書いています。そしてアンクにはビーという女房とクロノという息子がいると。手紙の主は色々なことを頭の痛みに耐えて解き明かしたというんですね。

アンクは手紙の主はずいぶんすごい人だなあと思い、署名を見ます。するとそこに書かれていたのは、自分の名前でした。そうです、アンクが自分にあてた手紙だったんですね。

アンクは決意します。女房のビーと息子のクロノと一緒にここから逃げ出すことを。親友のストーニイも連れて。はたしてアンクの作戦はうまくいくのか?

あらすじの紹介はこの辺りにしておきましょう。勘のいい人は、このあらすじだけで、かなりのことが読み解けるだろうと思います。

読者は知っているのに、アンクは知らないことがいくつかあるわけですね。

やがて火星の兵士たちは、地球と戦争をすることになります。それからは、ラムファードの予言通りに物語は進行していくわけですが、タイタンに着いてからがとても面白いというか、感情的に揺さぶられるものが多いです。

はたして地球と人類に隠されていた秘密とは一体!?

最後に、この小説で印象的だった場面を引用して終わります。マラカイ・コンスタントが初めて父親と会う場面です。

「わしのおやじは、わしに二つだけ忠告をしてくれた」と老人はいった。「その中で時の試練にもちこたえたのは、一つだけだった。その二つの忠告というのは、『元金に手をつけるな』と、『ベッドルームへ酒を持ちこむな』だ」老人のとまどいと混乱は、いまや耐えられぬほどに大きくなった。「さようなら」と、老人はだしぬけにいった。
「さようなら?」マラカイ青年はびっくりしていった。そして戸口のほうへ歩きだした。
「ベッドルームへ酒を持ちこむなよ」老人はいうと、息子に背中を向けた。
「はい、わかりました」マラカイ青年はいった。「さようなら、お父さん」そういうと、彼はそこを去った。
 マラカイ・コンスタントが父親を見たのは、それが最初で、また最後だった。(116ページ)


マラカイ・コンスタントが全米一の大富豪なのは、父親からその会社を受け継いだからなんですが、父親とは会ったことがなく、唯一会ったのがこの場面です。

父と子が人生で一度だけ会うには、もっとふさわしい演出があるだろうと思うんです。憎しみあうでもいいですし、どちらかが泣くのでもいい。

ところがこの場面は感情的なしっとりとしたものはありません。むしろ漂っているのは独特のユーモアです。「本来あるべき親子の出会い」と「マラカイ親子の出会い」には微妙な差があるような気がします。

そしてそのユーモアによる「本来あるべきもの」との微妙な差こそが、ヴォネガットの小説の特質だと思うんですね。それだけにこの場面がとりわけ印象的です。

この場面を読んで、ちょっとでもなにかを感じたなら、ぜひ『タイタンの妖女』を手にとってみてください。「本来あるべきもの」とちょっとずれた感じの小説であり、それがなによりの魅力になっています。

ヴォネガットも少しずつ色んな作品を読み返していきたいと思っています。

おすすめの関連作品


リンクとして、映画を1本紹介します。『ウォッチメン』です。

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『ウォッチメン』というのはグラフィック・ノベル(まあアメコミみたいなものです)が原作の映画で、簡単に言えば、『バットマン』などのヒーローもののパロディとして位置づけられる作品です。

パロディというのは、基本的には元になるものから、なにかをずらすことによって笑いを生じさせるものです。

『ウォッチメン』の場合は、笑いではなく、「正義とはなにか?」をもう一度問いかける仕組みになっていて、非常に興味深い作品です。

ヒーローであることが規制されて、ヒーローではいられない時代。かつてのヒーロー仲間が何者かに殺されてしまいます。一体誰が殺したのか? それを探っていくというのが、メインストーリーになります。

Dr.マンハッタンというヒーローがいます。このDr.マンハッタンが、非常に『タイタンの妖女』の中のラムファードに近いです。ぜひ注目してみてください。

明日は、村上春樹の『1Q84』を紹介する予定です。