トマス・ピンチョン『ヴァインランド』 | 文学どうでしょう

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ヴァインランド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第2集)/トマス・ピンチョン

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トマス・ピンチョン(佐藤良明訳)『ヴァインランド』(河出書房新社)を読みました。

池澤夏樹個人編集=世界文学全集の1冊で、ぼくが読むのは10冊目になります。全30巻なので、あと20冊あります。やれやれだぜ。

トマス・ピンチョンはぼくにとってはとても大きな存在で、アメリカ文学に関しての本を読むと、本当によく聞く名前です。

ちなみに、今ちょうど、新潮社から「トマス・ピンチョン全小説」が刊行中です。

ちょっと前まで、トマス・ピンチョンはいざ読もうと思っても、なかなか本が手に入りづらかったんです。

古本屋や図書館で見つけても、もうボロボロの本だったりして、内容の難解さもありますけれど、そういうことも読みづらさの一因だったと思います。いい時代になりましたね。

ぼくはトマス・ピンチョンを読んでいる人に会ったことがないんですよ。ネット上だとまた話は違いますが、現実世界では名前を知っている人は結構いるものの、実際に読んでいる人はいませんでした。

それだけ、ある意味において敷居が高い作家なのだろうと思います。ぼく自身も、トマス・ピンチョンを読んだのは、今回のこの『ヴァインランド』が初めてです。そして、やっぱりちょっと大変な1冊でした。

まず本文が2段組という時点で、ハードルが高いです。結構ボリュームがあります。あと設定が突飛すぎて、ついていけないところが結構あったりもしました。

物語にはいくつかのストーリーラインがあります。現在の物語と過去の物語が交錯します。ただ、そこに複雑さというのはそれほどなくて、基本的には現在の物語が進むに従って、過去の物語も語られていくという形式になっています。

物語は1つに集約されていって、結末を迎えるわけですが、最後にたどり着いた時、ぼくには感動も興奮もありませんでした。

わりとぽかんと取り残された感じです。その感動も興奮もないところにユーモラスさがあったりもするんですけどね。

感情移入できるタイプの小説ではありません。もう少し言えば、なにかを成し遂げる小説ではない、ということです。

いなくなった母親を探すという、しなければならないミッション自体はあるんですけど、それが読者の感情をぐっと引き寄せるような感じではないんですね。

『母をたずねて三千里』のマルコに感情移入できるような形で、プレーリィという少女に寄り添うことは、おそらくないだろうと思います。

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そうすると、ミッション自体に感情的共感がないわけですから、それが達成されるにせよ、失敗するにせよ、読者は感情として揺さぶられることはないわけです。

ただ、この『ヴァインランド』の面白いところというのは、そうしたストーリーラインや物語性とはまた違ったところにあるのだとも思います。描かれている世界観というのが抜群にユニークなんです。

文茂田武(フミモタタケシ)というあやしげな日本人が出てきます。タケシは、「シンデルロ」というベトナム戦争の死者の〈カルマ〉を調整するんです。そして、物語を通して、ブロック・ヴォンドという悪の親玉のような存在が立ちはだかります。

このブロック・ヴォンドは単に悪いやつというだけではなくて、物語に複合的に絡んでくるんですが、それはまあともかく、こうした「シンデルロ」やブロック・ヴォンドという悪の存在というのは、1960年代の現実のアメリカと合わせ鏡のようになっているんですね。

単なる荒唐無稽な物語なのではなくて、アメリカの〈パラノイア〉的なものを描き出した作品なんです。

〈パラノイア〉というのは、妄想なんですけど、支離滅裂な妄想ではなくて、きちんと筋が通ったような妄想です。誰かが自分のことを攻撃しようとしているとか、そういう感じです。

くノ一、つまり女忍者が縦横無尽に活躍したり、謎の組織があったり、映像が流れたり、そういうぐちゃぐちゃした〈パラノイア〉的な世界が描かれ、それが荒唐無稽であればあるほど、現実のアメリカの姿をある意味では映し出しているというわけです。鏡のように。そんな小説です。

テイストとしては、タランティーノ監督の『キル・ビル』からグロさを抜いた感じというのが一番伝わりやすいだろうと思います。

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ちょっとへんてこなニッポンが出てきて、かっちょいい女の人が戦ったりします。時系列が行ったり来たりして多少読みづらいですし、感情移入できる小説でもないんですが、世界観はかなり面白いです。

それはどこかSFっぽいんですが、もうちょっとごちゃごちゃした感じですね。このうまく説明できない独特の感じが、トマス・ピンチョンの魅力なのかもしれません。

作品のあらすじ


基本的なベースとしては、プレーリィーという少女が、母親のフレネシを探すという物語です。こんな風に物語は始まります。ちなみにブルージェイというのは、渡り鳥のこと。

 一九八四年の夏の朝、いつにも増して遅い時間に、ゾイド・ホィーラはとっぷらとっぷら、眠りのなかから浮かび上がった。窓を這う蔦を通して光が差し込み、屋根の上ではブルージェイの軍団が撥ねている。夢に見ていたのは伝書鳩だった。どこか海の彼方の遠くから一羽ずつ舞い降りてきて、また舞い上がる。その一羽一羽が自分宛てのメッセージを足に巻いているのだが、追いかけても捕まらず、羽から光のパルスを発しながら飛び去っていってしまうのだ。見えない力がオレを夢でこづいてるんだ、とゾイドは解した。(9ページ)


ゾイド・ホィーラは、マリファナなんかをやってるヒッピーのおじさんなんですけど、麻薬取締の捜査官に追いかけられたり、テレビのショーで窓ガラスにぶつかっていったりします。もうこの時点でよく分からない感じですよね。

家に帰ると、娘のプレーリィーがテレビを観ています。チャンネルを変えると、ゾイドが窓ガラスを割るところが放映されます。プレーリィーがそれに点数をつけたりします。

やがて、武装した軍隊に家を占拠されてしまいます。ゾイドが娘を見つけると、麻薬取締の捜査官が一緒にいて、母親が会いたがってると言うんです。母親の場所を知っていると。

プレーリィーの母親はフレネシと言うんですが、ずっと昔に出て行ってしまったんですね。

それはどうやら「ワシントン連邦検察の、それも超ド級の人物」(68ページ)であるブロック・ヴォンドに奪われてしまったということらしいんです。ブロック・ヴォンドは軍隊を動かせるほどの権力者です。

プレーリィーは、母親のフレネシを探しに行くことにします。ゾイドが娘の荷物にそっと忍ばせたのは、ある日本人の名刺。昔ゾイドが助けたことのある文茂田武(ふみもたたけし)は、いつか困った時にこの名刺のことを思い出すでしょうと言っていました。

その予言通り、その名刺によってプレーリィーが出会ったのは、DLというタケシのパートナーです。このDLはかつてフレネシと一緒にいたことがあって、凄腕の女忍者なんです。このプレーリィーとDLが一緒にフレネシの行方を探すことになります。

物語の流れは一方向ではなくて、DLの過去が語られたりもするんですが、その忍者修行の場面が傑作です。こんな風に書かれています。

 こうしてDLのフルタイムの忍者修行が始まった。といっても、彼女が励んだのは、古来の格式にのっとったものではない。猪四郎師は、ずっと以前からなのだろう、忍びの邪道に踏み入っていた。本来の純粋な求道性を覆し、術を改竄して、永遠性の香りなど微塵もない、その場限りの使い捨ての技を次々開発していたのだった。精神宇宙に背を向けた、残忍さばかりが引き立つ技が、眼前の敵を倒す目的以上のいかなる意味もまとわずに繰り出される。この俗に徹した殺法をーー心技体がひとつになった優美なる戦士の勇猛さとは対極の、あくまで低級な暗殺団の残忍さをーー後世に伝え残していくために、DLが選ばれたのである。いま師匠は、宙返りした弟子の動きに、すばらしい低級さの輝きを見いだしていた。(163ページ)


こうした正統ではない感じ、ちょっとへんてこな雰囲気は全編を漂っています。ギャグなのか、それとも真面目なのか。ともかく興味深いですよね。正統な忍者ではない忍者という設定。

タケシとDLとの出会いも描かれます。DLもブロック・ヴォンドを憎んでいて、ブロック・ヴォンドを殺そうと試みたところでタケシと出会うわけですが、あえてちょっと省きますね。どんな風に出会ったのかは実際に読んだ時のお楽しみということで。

タケシとDLはパートナーになって、「シンデルロ」の〈カルマ〉を調整しなければならないことになります。「シンデルロ」というのは、戦争の犠牲者で、簡単に言えば幽霊みたいなものですが、少し違います。タケシは「シンデルロ」の話を聞くことによって、〈カルマ〉を調整します。

「シンデルロ」については、こんな風に書かれています。

幽霊だなんてとんでもない、彼らこそは、カルマのバランス崩壊の哀れな犠牲者なのだ、とタケシは説明した。因果応報の歯車が狂って、殴られたら殴られたまま、苦しみの向こうに救いもなく、罪あるものには逃げられて、無念の心を引きずりながら、死の内奥への行進を今日も続けているのだと。ここシェード・クリークは、魂のさいはての地。白昼の光の世界のその裏にピタリ貼り付くようにして、彼らは生きるというのでもなく、ただながらえていくばかり。地図には載らぬ影の世界を、成仏できるわけでもなく、なんの希望もないままに、永劫の時のなかをただひたすらさまよい続ける・・・・・・(219ページ、本文では「ながらえて」に傍点)


フレネシを探すプレーリィーと女忍者DLの話をベースに、DLとタケシの物語、フレネシとブロック・ヴォンドの物語など、過去の出来事と現在の物語が交錯します。極彩色とも言うべき独特の世界観で紡がれていく物語は、やがて1つの結末へと向かいます。

かなり読みづらい小説であることはたしかなんですが、全体的にギャグというか、まあ〈パラノイア〉っぽい感じですね。なんだかへんてこな感じが漂っていて、とてもユニークな小説です。

全体的なストーリーは結構ぐちゃぐちゃしてるんですが、エピソードの1つ1つは結構面白いので、興味を持った方は読んでみてください。

しばらくは無理そうですが、余裕が出てきたらトマス・ピンチョンも色々読んでいきたいと思ってはいます。