レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』 | 文学どうでしょう

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アンナ・カレーニナ〈1〉 (光文社古典新訳文庫)/レフ・ニコラエヴィチ トルストイ

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レフ・トルストイ(望月哲男訳)『アンナ・カレーニナ』(光文社古典新訳文庫、全4巻)読み終わりました。Amazonのリンクは1巻だけ貼っておきます。

〈ロシア文学月間〉も残りわずかになってきました。ドストエフスキーと並んで有名なロシアの文豪と言えば、トルストイです。ドストエフスキーは今なお読み継がれていて、作家に与えてきた影響もかなり大きいですし、今なお影響力は大きいと思います。

一方、トルストイはどうでしょう。かつて白樺派など、日本文学に影響を与えたこともありましたが、現在の作家に影響を与えることがあるのでしょうか。そして一般の読者に今なお読み継がれているのでしょうか。

ぼくにとっては、トルストイはドストエフスキーよりも重要な作家なんです。思想的なことはまあともかく、純粋に物語として面白いからです。圧倒的に夢中になる読書体験というのは、やはりそうそうはなくて、ディケンズなどイギリス文学でよくあるような、1人の主人公が成長していく物語がぼくは好きなんですが、トルストイはそうしたものとはまた違った感覚を呼び起こしてくれる特別な作家です。

なので、ぜひみなさんにもトルストイの作品を読んでもらいたいんですね。たしかに長いんですが、大丈夫です。トルストイにはいわゆる文学的な難解さというのはあまりなくて、読みやすいんですよ。作中で扱われている議論や主人公たちの思索も一般に理解しやすいものになっています。わりとぼくらが考えるようなことで悩んでいたりするので共感しやすいのです。

主人公が1人ではなく、複数いるのがトルストイの文学の特徴ですけれど、物語の筋についていけなくなるようなことはあまりないと思うので、こちらも大丈夫だろうと思います。

さてさて、徐々に作品の中身に入っていきます。

タイトルの「アンナ・カレーニナ」というのは人の名前です。タイトルの通り、アンナ・カレーニナの物語です。アンナ・カレーニナは人妻でありながら、青年将校と恋に落ちるんですね。つまり不倫の恋。それだけだったら、フランス文学などでよくあるパターンですけれど、この物語にはもう1人の主人公がいます。

コンスタンチン・リョーヴィンという人物。リョーヴィンは貴族であり、地主です。農業をどう改革していったらいいかを考えています。そして彼は神を信じることができないんですね。そのことで悩んだりしています。このリョーヴィンがぼくはとても好きなのですが、それについてはおいおい触れていきます。ともかく、アンナ・カレーニナとコンスタンチン・リョーヴィン、この2人の物語だということです。

面白いのは、この2人の物語がどう関わってくるかということですが、ほとんど関わってきません。登場人物が共通している2つの長編小説を交互に組み合わせたようにすら見えます。その辺りには様々な意見があるようでして、破綻しているという見方もあれば、構造としてあえてそういう風に組み合わせているのだと分析されることもあるようです。

ぼく自身はリョーヴィンのパートが好きなのですが、リョーヴィンのパートだけだとここまで感動的にならないだろうと思うので、この組み合わせはこれでよいと思います。2つのパートの繋がりが弱いとは思いますけども。

作品のあらすじ


『アンナ・カレーニナ』の書き出しは有名です。こんな書き出しです。

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。(9ページ)


いきなり不倫の話から物語は幕を開きます。オブロンスキーという人物が、こどもの家庭教師に手を出してしまって、家族が大揉めなんです。この前半は後半の伏線になっているというか、物語全体のテーマが出ている箇所が多いですね。駅での描写などのことですけども。

オブロンスキーとその妻ドリーがもう一触即発状態なんです。

そこへオブロンスキーの妹であるアンナ・カレーニナがやってきて、うまくオブロンスキーとドリーの仲を取り持ちます。ちなみにアンナ・カレーニナの夫はロシアで有名な政治家です。

もう1人の主人公であるリョーヴィンが登場してきます。リョーヴィンはオブロンスキーの妻ドリーの妹、キティを愛しているんです。ぼくがなぜリョーヴィンが好きかというと、内気なんですね、リョーヴィン。自分に自信がないんです。たとえば誰かと待ち合わせをして、相手が来なかったら相手を責めるんではなく、まず自分が待ち合わせの場所と時間を間違えていないかどうか考えるような性格。すごく共感できます。

リョーヴィンはキティにプロポーズしようと思って、はるばるやって来たんです。がんばれリョーヴィン! ところが、キティはヴロンスキーという青年将校に惹かれてるんです。やさしいが優柔不断で、容姿がぱっとしないリョーヴィンに比べて、自信満々で輝くようなヴロンスキー。周りもキティとヴロンスキーの結婚がうまくいけばよいと思っている。

リョーヴィンはどぎまぎしながら、キティに想いを伝えます。キティもリョーヴィンのことが好きですが、いわゆる恋愛の好きではなくて、人間として好きなんです。ヴロンスキーのことが頭にあるので、結婚はできないと言います。

ここがまたリョーヴィンのいいところですが、ヴロンスキーこのやろー! となるのではなくて、ヴロンスキーのいいところを見て、なるほどヴロンスキーいいやつだ、自分は到底かなわないと思って、自分の住んでいるところに帰るんです。それでも心は痛みます。リョーヴィンは自分の農地の改善に取りかかります。

リョーヴィンは地主ですが、たとえば新しい機械を使って農業を効率化しようとしても、農民が言うことを聞いてくれないんです。作業は絶対に楽になるはずなのに、慣れたやり方を変えようとしない。そうした現場とトップの考えのずれのようなものは、アルバイトや仕事をしていると感じることがあると思いますが、現代でもよくあることで、改善しようとするリョーヴィンの気持ちも、やり方を変えようとしない農民の気持ちも分かります。

リョーヴィンは農民と一緒に草を刈ったりします。そうやって少しずつ両者が歩み寄っていくんですね。そうしたリョーヴィンの農地での生活も1つの大きなテーマとなります。

さて、一方のキティとヴロンスキーの話。ヴロンスキーは実はキティと結婚しようという気はないんです。綺麗な女性を社交界で持ち上げているに過ぎないんですね。キティはそれが分からない。あるパーティーにアンナ・カレーニナがやってきます。ヴロンスキーは、人妻アンナ・カレーニナに恋をしてしまう。アンナ・カレーニナもヴロンスキーとの間になにかしらのものを感じるのですが、貞淑な人妻ですから、気がつかないふりをします。

アンナ・カレーニナが自分の住んでいるところに帰ると、ヴロンスキーはそれを追いかけていきます。

残されたキティは悲劇です。リョーヴィンもいなくなり、ヴロンスキーは去り、屈辱とリョーヴィンに対して悪いことをしたという後悔の念にがんじがらめになって、病気になってしまいます。

アンナ・カレーニナとヴロンスキーはいつしか愛しあうようになります。しかし不倫の恋なので、ある時夫が気づきます。果たしてアンナ・カレーニナとヴロンスキーはどうなるのか?

そして我らがリョーヴィンとキティの関係はいかに!?

そうした2組のカップルを中心に、アンナ・カレーニナの兄、オブロンスキーやその妻でキティの姉ドリー、そしてアンナ・カレーニナの夫カレーニンが時折主人公のようになって、物語が紡がれていきます。

どうでしょう。面白そうでしょう? 面白いんです。リョーヴィンがんばれ!

アンナ・カレーニナとヴロンスキーがどうなっていくかはもうあまり触れませんけど、現代のように離婚して再婚すればいいじゃない、とは簡単に言えないんです。キリスト教という宗教上のこともありますし、それを許さない周囲の目もある。そしてアンナ・カレーニナにとってなにより重要なあることがあるんですが、それはまあ伏せておきます。

アンナ・カレーニナとヴロンスキーの関係は物語の途中である大きなクライマックスを迎えます。そこで大いなる赦しが描かれる。本来ならここで物語は終わっていてもおかしくないんです。すべてのことに決着がつきそうになります。ところがそうはならずに続いていくところが面白いところです。

アンナ・カレーニナとヴロンスキーのパートも、もちろん面白いですが、やっぱりリョーヴィンのパートが面白いです。傷ついた心を抱えていて、それでもやっぱりキティのことを愛しているんですね。キティが幸せになってくれるといいと思っている。ところが来た知らせはキティが病気になったという知らせ。でもどうすることもできないんです。キティとどうなるのか気になりますよね。がんばれリョーヴィン!

リョーヴィンがこの物語の主人公たる理由は、彼が神を信じていないことです。儀式やうわべだけの付き合いは意味のないことだと思っている。日本人にはキリスト教など、一神教の考えというのは今いち分かりづらい部分があります。神よなぜこんな試練を! みたいな考えはあまりないですよね。

西洋の文学では信仰との戦い、のようなものがテーマになることがよくありますが、なにと戦っているのか分かりづらいところもあります。でもとりあえず、キリスト教を信じているのが当たり前という周りの人びとから見たら、リョーヴィンちょっと変なやつだということです。

わりとぼくらはリョーヴィンの考えに近いものがあって、神さまなんていないよ、からのスタートなわけですよね。リョーヴィンの人生には様々な出来事が起こりますけど、彼にはあまり感動がないんです。神さまありがと! がないんですね。

そんなリョーヴィンが色々なことを悩み、苦しみながら少しずつ考えを固めていき、物語の最後である結論に達します。そうした思索の積み重ねが決して難解なものではなく、ぼくらに分かる言葉で、ぼくらに分かる理論の組み立て方でなされていくので、共感できますし、感動的なんです。

そうしたアンナ・カレーニナの激しい不倫の恋とリョーヴィンの神に対する思索の積み重ねが描かれた壮大な物語です。ストーリーとして面白いので、長いですがぐいぐい読んでいけます。ドストエフスキーが難しくて挫折してしまった人、世界文学で読んだら人に自慢できて、かつ読みやすいものを探している人。とにかく面白くて感動的な話が読みたい人。ぜひ読んでみてください。すごく面白いですよ。ぼくは好きです。

今月は確実に間に合いませんが、もう手元にあるので、トルストイの『戦争と平和』を少しずつ読んでいこうと思っています。6冊もあるんですよ。でもこちらも面白かった覚えがあるので楽しみです。