ザ・クラッシュ最大の問題作「サンディニスタ」は発売から44年経った今でさえ個人的には消化不良を起こしている。実際僕はこのアルバムを数え切れないくらい聴いているというのに。


オープニングから前作「ロンドン・コーリング」で見せてくれたクラッシュ最大にして最高のロックンロールの姿は何処にもない。


ニューヨークで刺激を受けて作ったファンクナンバーからモータウン、レゲエにダブ、ジャズ、ワルツにカリプソと、パンクロックのクラッシュから好きになったファンを徹頭徹尾置いてきぼりにする曲が連発する。


やっとクラッシュらしいロックンロール「誰かが殺された」が流れ出したと思ったら、ジョー・ストラマーではなくミックの軽いボーカルでガクッとなった。とにかくひたすらファンの期待を裏切る裏切る。


それでも僕はジョーやミックの思いや心意気を汲み取ろうと必死になって何度も何度もこのアルバムを聴いた。


それでやっとのお思いでこの厄介な3枚組の「サンディニスタ」を好きになる事が出来た。今ではこのアルバムも個人的には大切なクラッシュのアルバムの一つになっている。


ただどうしてもいまだに理解出来ない部分はなぜクラッシュは、ジョーとミックとポールとトッパーは、レコードで言うところの三枚目「ルーズ・ディス・スキン」から始まる5、6面を敢えてリリースしたのだろか。


ここで流れるダブを中心とした曲の数々はクラッシュというバンドが演る必然性を全く感じない。僕の場合はきっと多分世界中のクラッシュを愛するファンの中でも、かなり上位に食い込むくらいこのアルバムを聴き込んでいるので当然これらの曲も普通に好きだ。


だがこれらの楽曲はファンやこれからファンになろうとする人間を完全に拒絶するものだと思う。あれだけファンを大切にしていたジョーやミックの考え方と矛盾しているし、そこはクリエイターとしてのエゴがそれを凌駕してしまったという事なのだろうか。


何が誠実で何が不誠実なのか。三枚組のアルバムをファンに安く提供する為にクラッシュ側がレコード会社に掛け合った事をもって、クラッシュはやはりファンの事を大切にしてくれていたと取るのか、それとも最早クラッシュの楽曲である必然性を感じさせない3枚目の楽曲をカットせずに、アーティストエゴの為に無理矢理強引にリリースしてレコード会社とファンを混乱させたクラッシュは断罪されるべきなのか、一ファンの僕はいまだにその答えを見つける事が出来ないでいる、44年経った今日この時も。