私はそもそも何故満洲にやって来たのか。

私の叔父や多くの職のない若者の様に特別目的も無く、所謂満州浪人と揶揄される様な軽い気持ちで、満洲に渡って来たわけではないのは確かであった。


私は故郷の役所に勤めていたのであるが、薄給な為愛しい妻に贅沢な暮らしをさせてあげられない日々に嫌気がさしていたところに、満州映画協会の支那語通訳の求人募集の広告を目にして思い切って応募したのであった。


実は私は子供の頃、北平が義和団事件で揺れていた時に、私の父の建設会社が北平にあり、そこで家族が生活をしていた為に、支那人の子供たちとよく遊んでいて、自然と支那語を解せる様になったのである。


それから私は満洲に渡り甘粕理事長直々の面接試験を奇跡的にも合格して、晴れて満映の職員となったのであるが、私は事後報告で妻に満洲で仕事を見つけた事を話すと、その時妻は酷く悲しい顔していたのを忘れる事が出来ない。


その頃の私は満洲には明るい未来が待っているものだと疑う余地もなかったのであるが、今では内地も去る事ながら、ここ満洲は更に身の危険を感じる様になって来た。


今まで、我々日本人に対してまるで子犬の様な目つきをしていた支那人達や朝鮮人達が、敏感に何かを感じ取ったのか、妙によそよそしい態度を取り始めたのである。


それから私は理事長の忠告を受け入れて内地に帰る決断をしたのである。その事を妻に言うと妻の美しい顔が一瞬にしてパッと明るくなるのがまるで手に取る様に感じられた。


それを見た時私は妻にとって良かれと思って選んだ道が、実は妻を酷く苦しめていた事実を悟って、言葉では言い表せられない程の罪悪感に駆られたのであった。


つまり認めたくはないが、ここ満洲の首都新京にも、戦火は直ぐそこまで近づいていたのである。