野中さんが生前仰っていた通り、クラッシュはあの四人だったからこそクラッシュたり得たのであって、トッパー・ヒードンが薬物トラブルでバンドを去って行った時点で、実質クラッシュは崩壊していたのだと思う。


つまりクラッシュは「コンバット・ロック」を制作していた時までがクラッシュであり、その後ザ・フーのラストツアーのオープニングアクトとしてアメリカのロックファンに熱狂的に受け入れられた、あのシェイ・スタジアムの時ですら最早クラッシュでは無かった。


だからその前にクラッシュが日本に来てくれて、いくらジョー・ストラマーの体調が万全では無かったとしても、トッパー・ヒードンを含む完全体であるクラッシュを観る事が出来た日本のファンはとてもラッキーだったと思う。


そんな奇跡の瞬間に立ち会わなかったあの時の僕は、つくづく馬鹿だったと今更ながら後悔してしまう。






初めて「トミー・ガン」のシングルを聴いた時のあの衝撃は今でも忘れる事が出来ない。あの頃何がロックで、ましてやクラッシュがパンクバンドだなんて何も知らずに、ただ理屈抜きでそのカッコ良さだけに魅了されていた。


ヤング・ミュージック・ショーで観るクラッシュの来日ライブは、先ず「ガンマンの祈り」が流れ、メンバーがそれと共にステージへと現れて、「ロンドン・コーリング」の特徴的なカッティングでショーがスタートする。


一体何度このオープニングの場面を観たかわからない。その度僕はいつも自分の深い何処かに確実にスイッチが入るのを感じる。


それはあの場所にいたクラッシュファンの少年少女や、それからクラッシュ愛に溢れる野中さんの様なクラッシュの担当ディレクターだった方や、ザ・モッズのメンバーや大貫憲章氏の様な、クラッシュにのめり込んでいたミュージシャンや音楽評論家等々、全てのクラッシュを愛する人々と僕はそんな熱い思いを共有していた事への郷愁の念なのか。


1982年の日本公演は、クラッシュのライブの中で最高の出来では無かったかもしれないが、実際にこの目で観た訳ではないが、僕にとって最も記憶に残るライブだったのは間違いない。


今やクラッシュはとっくに存在せず、ジョーも野中さんももうこの世にはいない。


だが僕はこれからもずっとザ・クラッシュを愛していた事や、ジョー・ストラマーを敬愛していた思いが消え去る事は無いだろう。