放射能に劣らず村人が恐れているもの 飯舘村の悲劇(後篇) | clapton481のブログ

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放射能に劣らず村人が恐れているもの
飯舘村の悲劇(後篇)
JB PRESSより
2011.10.20(木)
烏賀陽 弘道



私が福島県飯舘村を訪ねた9月7~9日ごろ、標高500メートルの村はもう秋が始まっていた。濃青の空の下、コスモスやハスの花が咲き乱れ、山村の沿道を淡い桃色で飾っている。
池のハスに花が咲いていた(筆者撮影、以下すべて)

 放射能災害の取材に来たはずなのに、つい車を止め、写真撮影に熱中してしまう。絵に描いたような美しい田園風景に、前の日に、線量計が毎時350マイクロSv(シーベルト)という想像を絶する数値を出したことなど、忘れてしまう。

 道端で、でかいカメラを持ってうろうろしているよそ者の男は、見るからに怪しい。村民全員が避難したあとなので、空き巣の警戒のためにボランティアの村人が車で見回りをしている。車が止まり、呼び止められる。

 とはいえ、とげとげしさはない。取材で東京から来たフリーの記者で烏賀陽といいます、と名刺を渡すと、みんな笑顔になる。「おつかれさまです」とまで言ってくれる。大変な災難の最中なのに、闖入者の私を労ってくれる。とても申し訳ない気持ちになる。
見た目は何も変わらない、だからこそつらい。

 その時も、道ばたのムクゲの花を撮影していた。ピンク、赤、白と色とりどりの大きな茂みだ。人気が絶えて、自然のままに咲き乱れていた。

 ビニールハウスは骨組みだけになり、セイタカアワダチソウの草原に埋もれている。田んぼも雑草の草原だ。かき分けて進むと、足元からバッタがぴょんぴょんと飛び立つ。車が少ないせいか、虫の音のリリリという声が、オーケストラのようにやかましく聞こえる。

 エンジン音がして顔を上げると、白い軽トラックが止まって、おじいさんがじっとこちらを見ていた。赤銅色に日焼けた顔で、農家の人だと分かった。

 「どっから来なすった」

 東京から来ましたフリーの記者で、と怪しまれた時の説明を慌てて返しているうちに、ふと気づいた。見回りは必ずペアで動く。このおじいさんは1人だ。見回りではない。

 「いや、違う」

 私が渡した名刺を見ながら、おじいさんは小さな声でつぶやいた。

 「はい?」

 「それ」

 節くれ立った指の指す先をたどると、私が首から下げたデジタル一眼カメラだった。

「よく見ていってください。そのカメラで写真に撮って伝えてください。この大地が荒らされてしもうたんです。ほれ、この土地です」

 目の前の雑草の草原は、このおじいさんの田んぼだったのだ。

 「津波で壊されたところも大変なんだろうけど。大変なんだろうけど・・・」

 おそらくこれまでの人生で声を荒げたことなどないであろう、穏やかそうなおじいさんが、涙で声を詰まらせていた。

 「ここは見た目には何も変わらんのです。何も変わらんから、よけいに立ち去るのがつらくて。つらくて・・・」

 後は言葉にならなかった。

 沈黙が秋の空気を満たしていた。私は唇をかんだまま、おじいさんの顔を見つめた。きっと、村人全員が同じ苦難に遭っている中では、悲しみを表に出すことすらためらわれるのではないか。

 私は考えた。ずっと米をつくってきた土地を奪われたこの人を、何に例えればいいのだろう。船をなくした漁師。言葉を無くした詩人。子供を失った親。

 もっと仲間を連れてきてください。たくさんの人にこの村を見てほしい。何かが起きるきっかけになるかもしれんから。

 そう言っておじいさんは立ち去った。エンジンの音が遠くに消えると、また虫の音と風の音しか聞こえなくなった。

 あたりは暗くなり始めていた。誰もいない。山の端に日が沈もうとしている。
打ち砕かれた元コンピューター技術師の夢

 福島第一原発から発生した高濃度の放射能雲に襲われた山村、福島県飯舘村の報告を続ける。

 6000人の村人は村の外に避難した。とはいえ、以前本欄で書いた20キロ圏内の立ち入り禁止区域(=「警戒区域」)のように、無人になったわけではない。警官が検問をしているわけでもない。村人が退去しなくてはいけないほど線量は高いのに、出入りは自由だ。車は県道を行き交っている。工場は操業している。村人は忘れ物を取りに、あるいはイヌやネコに餌をやりに、戻ってくる。

 そのまま退去せずに残っている人たちもいる。

 「今日、玄関に置いたら(毎時)3、4マイクロシーベルトありました。田んぼに行ったら7~8に上がります」
日が落ちて外は暗い。まだ新しい建築材の香りがするコテージに、伊藤延由さん(67)が戻ってきた。線量計を取り出して見せてくれた。パソコンにデジカメをつなぐと、今日の登山のデジタル写真を呼び出した。

 「今日は野手上山(阿武隈山地)に登ってきたんです。ほら、山頂から太平洋が見えるんですよ。線量ですか? 山頂の神社で8マイクロシーベルトくらいでしたね」

 ここは線量計が350マイクロSvを出した「長泥」集落から車で10分も離れていない。福島第一原発から漏れ出した高濃度の放射能雲が海風に吹かれて北西に流れ、阿武隈山地にぶつかった、その山の裏側斜面にある。「野手上山」とは、その太平洋を見下ろす分水嶺だ。

 伊藤さんは東京・上野にあるソフトウエア会社を5年前に退職したコンピューター技術者だ。郷里の新潟に帰っていたが、農業に興味を持ち、元の勤務先が研修施設「いいたてふぁーむ」を開いたのをきっかけに、管理人として飯舘村に引っ越してきた。

 田畑をつくり、やっとの思いで開所にこぎつけたのは2010年の3月25日だ。1年も経たないうちに、3月11日がやってきた。

 中学や高校のキャンプを受け入れた。牧場で羊を飼おう。エコツアーはどうだろう。うつや引きこもりの子どものリハビリにと東京のNPOから相談があった。ようやく盛り上がってきたところで、原発事故にすべてが潰されてしまった。

 「だって、若い人をこんな線量の高いところに連れてきちゃダメですよ」

 伊藤さんは力なく笑った。
冗談を飛ばすのは、あまりにも現実がひどくて憂鬱だから

 村に高線量の放射能雲が到達した3月15日、村には国からも県からも何の知らせもなかった。地震の被害がほとんどなく、海からも遠い村人6000人は、自分たちの故郷の村が被災地だという自覚もなかった。
飯舘村の風景。田畑は雑草の草原になってしまった

 海岸部の南相馬市から放射能を恐れて避難してきた人たちが小学校に寝泊まりすると聞いて、ワンボックスカーに研修所の毛布や布団を積み、小学校の体育館との間を忙しく行き来した。3月15日午後は雨だった。そして翌日雪になり、地面に降り注いだ。村人はずぶ濡れになりながら避難民のために物資を運び、炊き出しをした。放射能の雲から降る雨や雪の中を。

 伊藤さんのいる場所は、福島第一原発から33キロ離れている。電気が止まり、テレビニュースは見ることができない。が、20キロ圏内が立ち入り禁止になり、30キロ圏内が屋内退避区域になったことを知った。どちらも村は外れていた。政府や学者は「ただちに影響はない」と連呼していた。それ以上気にしなかった。

 村人が異常に気づいたのは、3月19日から20日にかけてだ。村のほうれん草から、続いて村内の上水道の水源から高濃度の放射性物質が検出された。皮肉なことに、水源は、村内でも第一原発寄りの山にあった。

 「水を飲むな!」
役場から広報車が走った。初めてペットボトルの水が運び込まれ、給水車が駆けつけた。

 「あとで聞いたら、(毎時)44マイクロシーベルトなんて数字がその頃から出ていたらしい。でも、こんなにすごい汚染だなんて思いませんよ」

 結局、村民の避難が決まったのは、遅れに遅れて1カ月後、4月22日だった。たっぷり被曝したあと避難するという、村民にすれば人を馬鹿にしたような話だ。

 「放射能の入った水を使って、食事を煮炊きして、お茶まで入れて。濃縮までしてしまったわけですね。ハハハ」

 伊藤さんは笑った。が、目は笑っていなかった。横で聞いていた案内役の愛澤卓見さん(39)も頷いた。

 愛澤さんが村から出たのは7月下旬だ。前回の本欄で「なぜもっと早く避難しなかったのか」と尋ねた時「だって、もうたっぷり被曝してましたからね」と力なく笑っていたことを書いた。村人と話すと、こちらが「いいのか」と思うくらい被曝ネタで冗談を飛ばす。

 「今日もX線写真1枚分くらい被曝しましたねえ、とかみんなで笑ってますよ」

 被曝とかそういうことを冗談にするとツイッターでは不謹慎だと罵声が飛んできます、と私は言った。2人は顔を見合わせてまた笑った。

 「でもね、ここまで現実がひどいと、冗談にでもして、笑わないとやっていけないですよ。あまりに憂鬱で」(愛澤さん)
自分をモルモットにして観察するという悲痛な決意

 伊藤さんも避難先の住宅がある。新潟の実家に戻ることもできる。が、もう村に残ることに腹を決めている。
伊藤さんは村に残ることを決めた

 「私の年齢だと、放射線を浴びても、がん化するのに20年かかるそうじゃないですか。じゃあ、寿命じゃないか(笑)。このトシだと、離れるリスクより、今のままいたほうがいいと思いますね」

 「ここまで来たら、私は自分をモルモットにして観察しようと決め込んでいるのです。克明に線量を記録しています。毎日の行動をエクセルでパソコンに記録しています」

 「(過去の)裁判でも(被曝と健康被害の)因果関係は判決で認められていないといいますね。じゃあ、証明してやろうじゃないですか」

 怒りが伊藤さんを駆り立てている。自分の定年後の夢を破壊されたことだけではない。愛する飯舘村の美しい自然が、無残に汚されたことが悔しくて、いたたまれないのだ。

 「イノシシ、サル、キツネ、タヌキ・・・ここにはいろいろな動物がやってきます。稲を育てて田んぼに水を入れることだって、ここでは自然を守ることの1つなんです。都会の子どもを連れてダムで釣りをしたらどうだろう。川でラフティングをしたらどうだろう。きっと喜ぶだろう。考えるだけでも楽しかったのです」
そこまで一気に言うと、伊藤さんは真っ暗な窓の外を見つめたまま、ふっつりと黙った。

 私は次の言葉を待つのは止めた。もう夜10時近かった。気温は13度まで下がった。帰り時だ。
原発事故が村人を真っ二つに分断した

 愛澤さんが、またプリウスで送ってくれた。少し話をしたくて、村を離れる前に、愛澤さんの実家に寄ってもらった。愛澤さんは、隣の福島市に借家を借りて避難先として住んでいるのだ。
実家の居間に立つ愛澤さん

 村人の団体「負げねど飯舘!!」の対外窓口でもある愛澤さんは、原発事故が村を引き裂いてしまったことを悲しんでいる。「あくまで村に残る」ことを選ぶ世代と、「ここでは子どもを育ていくことはできない」と考え移住を選択しようとする世代だ。

 村長はじめ村の有力者は、前者だ。「除染だって村おこしの産業になる」とあくまで踏みとどまることを言う。

 しかし若い世代は「これから結婚したりこどもを育てたりするなら、ここにはいることはできない」と言う。

 自分の故郷を愛することはどちらも同じなのに、福島第一原発事故は、6000人の村人を真っ二つに分断してしまった。

 「5年、10年先なら、村長の言うように楽観的になれるのかもしれません。でも、20年後はどうでしょう。悲観的に見えるのです。村で暮らしていくことの意味が、あれから全く変わってしまった」

 放射能の影響は年齢が上がるほど低下する。事実の受け止め方が、世代によってまったく違うのだ。39歳、独身の愛澤さんは、結婚して子どもを育てる未来を考える。そして公務員なので、行政のことを考える。

 「水道とか道路とか電気とか、どうなるのか考えてみてください。もうここは税収の入る村ではなくなってしまったんです。企業も出ていくでしょう。老人しか戻らない村に未来があるのでしょうか」

 「もちろん補償金とか補助金とか、出るのでしょう。でも、それではまた、国が与えてくれるのを待っているだけの村になってしまう。それでは村が『インディアン居留区』のようじゃありませんか」

 そこは愛澤さんが生まれてからずっと住んできた農家の居間だった。夜の村は静かだ。会話が途切れると、衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。
ふと線量計を取り出すと、毎時1.5マイクロSv。昼間、村役場の前は3マイクロだった。屋内だから低めなのだが、東京では屋外でも0.1程度だったから、10倍以上である。もちろん、何の匂いもしない。まったく平常の風景がそこにあった。
「飯舘はもう頑張れません」

 愛澤さんの言葉を聞いて不思議に思ったことがあった。「負げねど飯舘!!」という団体名はずいぶん強そうというか、雄々しく聞こえる。が、愛澤さんの言葉は、楽観していなかった。そのギャップに驚いた。

 それを言うと、愛澤さんは小さくため息をついた。

 「飯舘はもう頑張れません。頑張れる状況じゃないんです。だから『負げねど』にしたんです」

 思いがけない答えが返ってきて、私は返す言葉を失った。

 「双葉(町。原発の地元)は突然死してしまった。でも保険(注:補助金や寄付など原発マネーのこと)に入っていたから、葬式が出せた。ここ(飯舘村)には交付金や補助金はおろか、東電の事務所すらいない。私たちも瀕死の重傷なのに、駆けつけてきた救急隊やまわりがみんな『大丈夫だ』『頑張れ』と言う。だから、せめて『負げねど』なんです」

 そうだったのか。ジョークを飛ばし明るい愛澤さんと過ごすうちに、いつの間にか、私も「頑張る被災者」というマスコミがつくったスレテオタイプを投影していたのかもしれない。

 「こうして記者さんに発言していても、本当は世間が怖いんです」

 愛澤さんはぽつりと言った。

 「世間はあっという間に敵に回ります。東電からの補償仮払金をもらって、遊んでいる村民もいます。それへのやっかみもあります」

 私ははっとした。これまで、欲望と闘争が渦巻く都会から遠く離れた山村で、慎ましく助けあって暮らしてきた村人たちは、突然薄氷を踏むような毎日に投げ込まれたのだ。

 村人が恐れているのは放射能だけではない。人間こそが怖いのだ。村の中で対立し、いがみ合う人間たち。被害者である村人に嫉妬の視線を向ける人間たち。

 表面は笑顔で「頑張って」と言いながら、心の底では何を考えているのか分からない。目に見えない放射能に劣らぬ、その不気味さ。

 夜11時を回った。

 愛澤さんは実家から福島市の避難先に「帰る」という。私も車を並べて走った。

 人のいなくなった村は明かりが絶えて、道路の両側は墨を流したような暗闇が続いた。月明かりだけが、阿武隈山地の斜面を照らしていた。暗黒の中を走るうちに、いつの間にか村を出たらしい。ふと前を見ると、もう福島市の街の灯が見えていた。