初期の原発建設にかかわって:三菱重工元技術者 会澤章夫さん
2011年10月2日付「兵庫民報」
三菱重工に50年前、技師として入社し、原子炉建設の初期段階からかかわった会澤章夫さん(74)=尼崎市=は、管理職だったとき、原子力の危険性を上司に進言。それ以後、昇進の道を絶たれました。いまの思いを聞きました。
制御なければ核兵器そのもの
日本の原子力「平和利用」推進を目的に掲げて、日本原子力研究所が設立されたのは1956年です。
私は翌57年、大学に入学しました。この年茨城県東海村の研究所に日本最初の原子炉が臨界(核分裂を始めること)になりました。大学に原子力工学の講座が設けられはじめたころです。
日本での研究は始まったばかりでした。私は大学で機械工学を専攻しました。熱工学として原子力について興味、関心をもちました。そもそも、大量破壊兵器になりうる原子力の巨大エネルギーを制御する「平和利用」目的は、制御がなければ核兵器そのものであると勉強しながら痛感しました。「米ソ英仏核兵器時代」でしたから。戦争を体験した教官たちも同じ理解でした。
その後、日本の原子力利用の歴史をたどる仕事に就くことになりました。
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三菱重工に61年、大卒社員で入社し、神戸造船所に配属されました。圧力容器製造現場の生産技術者でした。当時、全国各地に火力発電所や石油化学コンビナートがつくられ、公害問題が深刻になっていました。「原子力平和利用」の名のもと国を挙げて、原発開発をすすめました。
国産第1号の発電用原子炉が62年、東海研究所で臨界になりました。日本初の商業用原子力発電所として、イギリスから輸入したコールダーホール型原子炉を建設しました。黒鉛と炭酸ガスを使った炉で、66年営業運転を開始しました。
しかし、アメリカが日本に軽水炉の輸入を強く求めてきました。沸騰水型を日立と東芝が、加圧水型を三菱が導入しました。日本を3対1の割合で、2つの型の原子炉がすみ分ける国策です。
米GE(ゼネラル・エレクトリック)&東芝・日立は東京電力福島第1発電所の原子炉を建設。米WH(ウェスティングハウス・エレクトリック)&三菱は関西電力美浜発電所を請け負いました。匠(たくみ)と呼ばれるベテラン職人たちが支えてきた職場が、海外から技術導入し、指導も受ける仕組みに大きく変わっていきました。
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現場は美浜原発1号炉の70年運転開始へむけ、突貫工事でした。70年の大阪万博会場での「原子の灯」点灯に間に合わせるためです。会社の社史には、当時の状況を相当のページを割き、誇らしく書いていることでしょう。
企業は批判意見を職場から排除
しかし図面を持ち現場で建設に携わった技術者の多くが、仕事の中で原発の危険性、被曝の恐ろしさを知りました。私は、75年当時係長でしたが、新進気鋭の担当者からの提言をもとに、原子炉定期検査の本質的な問題点と労働者を被曝から守る対策を求め、上司にレポートを提出しました。しばらくして部署からはずされました。提言した担当者らは、自己都合退職や転勤に追い込まれました。
私は、頑張って踏みとどまりましたが、社内機密に接触できない席を与えられて、会社から行動を監視されました。非破壊検査主任技術者の専門職につきましたが、定年まで昇進しませんでした。
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関西電力は、原発建設当初から、社員の思想調査をおこない、共産党員排除にとりかかっていました。そして原子炉メーカーの三菱重工にも同様の措置を要求しました。原発に批判的意見をもつ者、反対する者を危険分子と見なし、インフォーマルに排除する姿勢は、レッドパージと同じです。
原子炉定期検査に入る孫請け労働者は、当時からボロ布同様に使い捨てられました。いま福島原発に関わっている労働者に対する、東京電力のあつかいも同じです。周辺住民への対応を見ても、人間を大切にする企業の心がありません。
美浜1号炉の定期検査に入った私も、低線量ですが内部被曝し、いまも定期的に検診を受けています。
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原発の被曝や核廃棄物(死の灰)問題は、確実に子孫に禍根を残します。残された人生、少しでも原子力発電の「語り部」として話さなければならないと考えています。