うつらうつらしてるうちに母がまた夢に出てきた。
当時のことを考えると眠れなくなったので、思いのまま書いていきます。
僕が『医者を目指そう』と思った過程もいつかまとめて書こうと思っています。
とても暗い話なので、心が弱ってる方は見ないほうがいいかもしれません。
母と僕は同じ病院に入院していた。
母は、弟が亡くなった年(2006年)からスキルス性胃がんにより、闘病生活を送っていた。
でも、それも終末期にさしかかり、3年前の今頃は命のカウントダウンが始まっていた。
母は2009年10月から入院していた。入院生活中にせん妄状態(意識混濁に加えて幻覚や錯覚が見られるような状態。)になり、妄想が激しくなり、強くて優しい母だったが人格が変わってしまってとても攻撃的になっていた。(でも、なぜか、僕に対しては優しかった。)。2009年12月に病室の窓から飛び降り自殺をはかろうとし、看護師さんが止めにはいったので未遂に終わったが、それ以来、母の病室の窓はあまり開けなくなっていた。
僕は、肺血栓塞栓症により(このころはまだ慢性血栓塞栓性肺高血圧症とは診断されていなかった)、2009年12月から入院していた。11月にやっと卒業できる研究成果が出たので、卒業論文があまり書けていなかった。なので、入院しながら病室で卒業論文を急いで書き上げていた。その傍ら、看護師さんに車いすでお母さんの病室につれていってもらい、毎日、お母さんと話をしながら、お母さんが気持ちよさそうに喜んでくれたので、背中や足をマッサージしてあげていた。あの頃の僕には、それぐらいしかできなかった。
そのときに、ふいにお母さんがうつろな目で、
でも、しっかりと僕の目を見て、
『親孝行な息子をもって幸せやわぁ』
って言ってくれた。お母さんに笑顔で『ありがとう』と言いたかったが、そのときに涙が出そうになり、「涙を流すまい」とうつむき、何も言えなかった・・・・・・・。
僕はとてもじゃないけど、親孝行な息子と呼べるような息子ではなかった。
小学校の高学年のときには一度登校拒否をおこし、学校に復帰しても学校を抜け出してたりして授業をサボり、喧嘩もしょっちゅう起こしていた。中学生になればそれがさらにエスカレートし、相変わらず喧嘩をすぐに起こし、学校は遅刻して当たり前、校舎内で花火を飛ばしたり、教師の目の前で教卓を壊したり・・・・・・数えあげればきりがない。生徒指導部にはしょっちゅう呼び出され、親が学校に謝りに行ったのも、一度や二度ではない。中二のときは、手を焼いた親が茨城県の田舎に僕を預けた。そこでいろんな体験をして実家に帰ってきたときは少しおとなしくなっていた。(それでも悪ガキには変わりなかったが)。中三の12月にやっと受験を意識して勉強をしたら、奇跡的に地元の進学校に合格し、そのまま進学した。(のちに、今僕が通っている大学の大学院を受験するときに、このときのクラスの同級生に大いに助けられた)。もともと勉強が嫌いな僕が進学校になじむわけもなく、体育館裏で格闘技経験者などを集めて喧嘩のまねごとをしたり、他校の柔道部に乗り込み、『異種格闘技しよやぁ』とかいって殴り合いをしたりしていた。こんなだから、しょうもないことで警察のお世話になることもしばしばあった。『明日死んだら終わりやん。頑張って生きる必要なんてないやん』っていう考えが、中学生のころからこびりつき、やりたいことも特に見つからず、なんの考えもなしに、大学受験で一浪をし、一浪をしなくても行けるような大学に入学した。ハッキリ言って、本当にダメ息子だった。
お母さんが病気でもう一年ももたないって分かっていても、大学の研究成果が全然出ず、研究室によく泊まり込みをしてたので、実家にはあまり帰らなかった。(母が亡くなった後に、母の日記が見つかったが、僕が家にあまり帰らなかったので、心配をしてさびしい思いをしていたことを毎日綴っていた)。
僕は、もうお母さんとは来年は同じ季節を迎えることができないことは分かっていたので、できれば傍にいたかった。
でも、研究が進まない。
いつもそういうジレンマに悩まされ、9月くらいから激しい胃痛を引き起こしていた。
家には父は仕事で夜遅くに帰ってきてたので、母に一人家でさびしい思いをさせていたのは、わかっていた。
すごく罪悪感を感じていた。
そんな僕に対して母は、
『親孝行な息子をもって幸せやわぁ』
っていってくれた。
「どこが親孝行な息子やねん」
って自分を責めた。
けど、
・・・・・・・・・少し救われた気がした。
この一ヶ月後の2月1日に僕は退院し、4日に母は誰に看取られることなく息をひきとった。
そして、その二ヶ月後の4月に、今度は僕が『慢性血栓塞栓性肺高血圧症』を発病し、今の病院に緊急入院した。
主治医の先生たちからは『正直、手探りの状態での治療になります。』と言われていた。
当時の難病センターの情報では、僕の状態では、『5年生存率10%』と書かれていた。
でも、僕は、
もうその頃には心身ともにボロボロで、
『あぁそうか。もう少しで僕も死ぬのか。』
って思っただけで、
悲しみも何も感じなかった・・・・・・・。