今日の出来事 両論批評 -4ページ目

食人という認識を問わなければ単なるお食事か!しかしこの会食は
敢えて食人という認識を欲しがっている。
人間の遠い何かが呼び起こされるか?
解放が見せる新世代には新しい食文化が誕生するかもしれない。
そして解放に選ばれた新しい人類が何を仕出かすかは難しい!


認識を共有する人々の人数が多ければあたりまえにデモの人数も増えよう!

増える傍ら参加しない人々も存在している。



認識に祟られ暴徒化するあの形相は認識を疑う自由を与えられてはいない。

教義は頭を制圧している!



片側の大騒ぎは対する片側が有り続ける限り続くだろう!

認識の両面を見渡せる広い視野を持たねば次の新世界も進化も大きなお笑いである。


何事もなく済んで幸いだったが化け物に睨まれた時間は恐怖だった事だろう!

爆発すれば命などあるまい、爆発せずともその姿は爆発の認識を呼ぶ。



これは破壊の存在であろう!破壊の存在意義に対する練習は皮肉にも成功したか?

実践に考え得る地獄絵図は人も理論も成す術はない、これはやはり化け物だ。

横山大観はよく知られる画家だが様々な解釈があることは面白い。
解釈を通した頭に横山大観が現れて来る様にも感じられる!
解釈を通さぬ目を意味を知った頭が制圧し始める!もはや目玉は
頭に反抗は出来ない。この絵に意味があるのなら!

しかし展の鑑賞は鑑賞方法を規制はしない。
目を信じ解釈を通さず観るのも面白い!そこに何が見えるか?
観者各人見えるものは違えど意味を問う前に一瞬現れる感情が
目玉が訴える本来の芸術如きかもしれぬ!

色を求めた目玉は意味を見方につけた頭と共存出来ようか!

理想は親の精神を覚醒させ子の生命まで奪うものか!
人間的ではないが人間以外には出来る事ではない。
人間が越える事のできぬ言葉は恐ろしい!

生存に反するこの行為は如何なる苦しみだったか?
法という言葉は両親に反省をみたのか?
生きながら地獄を彷徨う子の使命は親の反省を呼ぶことだったか?

理想はなんだったのか?地獄の鬼だろう!

女子より印象的な大学の名前は観者に狙い通りの認識を呼ぼう!

覚醒を教義は止めることが出来なかった!しかし教義など何者でもない!
覚醒に抗しているのは無抵抗の日常か!呼んでいる覚醒は重力の向こうにあろう!

しかし精神から見放される肉体は重力を逃れる事は出来ない。
何に対してか?肉体は時間となって溶け出すだろう!
そして教義は沈黙を続けよう!


古くから海に生きた人々に山は合うはずはない!それは単純に海に創られているからだ!

これは空論ではない!海の生き物は捕われ海の人の身体となり朽ちた身体は海へ帰る。



先人より営まれるこの循環は海そのもの一つの体系を呈している。海に生まれた偶然は

絶対な必然である。大津波も一つの海の側面に過ぎない!先人達は何時でも海だったのだ!



切り刻まれた魚群の報復か!1000年の報復はあまりに厳しい、併しそれは同時に1000年の勘弁を貰う!

海の人の心を呼ぶ海は本来一つを訴えている!そして新しい海は自ら押し付けた制裁を生き抜いた人々に

皮肉にも自らの今後を託している!





もはや中国に領海などという言葉は通用しないだろう!
同時に遺憾の意など更に通用するはずもない。

この問題は両国が崇める言葉ではもはや水掛論である。
これを納める事の出来る更に強い言葉(世界の規則)に
託す他あるまい!平和の下に解決を望むなら!

両国人間は成り立っているそれなら普遍な言葉は持っていよう?
言葉を越えた世界に人間は成り立たぬ!

尖閣諸島は自らの言葉(尖閣諸島)の認識を問うている様に見える。

そして人間の進化を試しているのかもしれない。

そもそも今まで共に歩んできた原発のリスクを今になって問うたところで
原子力の大きさに対するあたりまえの危険であろう!原子力は大きい、
危険も大きい!原子力の存在を許した時点に裏は存在を共にしている。
例えばボールを圧せば押した部分は何処かに逃げる、あたりまえに
一つとはそんなものである。

災害の悲惨を見なければ多く日常の平凡など見えぬところに
両論を征せぬ自己の甘さや中途半端さがある。

中途半端な批評は自らを破壊するまで批評し続けなければ
新たな始まりにはたどり着けまい!

長年規制を強める児童ポルノだが無くなるには至っていない。
興味本意程度の観者には規制は有効かもしれない。
リスクを背負ってまで所有しようとは思うまい。

しかし児童ポルノが精神の遠い場所で身を操るとしたら!
それは厄介だ、強い精神は抵抗に立ち向かうからである!

リスクはプレミアなるものを連れて来るかも知れない。
そして観者はプレミアに挑戦する。