連載:『「結婚=損」の正体 ~なぜ私たちは独身という“合理的”な道を選ぶのか~』

これまでの連載で、私たちは結婚に潜む「法的な拘束」と「資産半減リスク」という、二つの巨大なリスクを解き明かしてきました。

しかし、結婚が個人、特に女性の人生に与えるダメージは、そうした派手なリスクだけではありません。もっと静かに、しかし確実に、あなたの可能性を蝕んでいく「見えざるワナ」が存在します。
それが、日本の税制・社会保険制度に組み込まれた、**「年収の壁」**という名の巧妙なシステムです。
「パートの時間を調整しないと、扶養から外れちゃうから」
あなたの周りで、そんな会話を耳にしたことはありませんか?
一見すると、家計を守るための賢い選択のように聞こえるこの行動。しかしその裏には、個人のキャリアと生涯賃金を犠牲にする、恐ろしいカラクリが隠されています。
今回は、善意の顔をして近づいてくる、この制度の不都合な真実に迫ります。

「働けば働くほど損をする」という謎の現象

「年収の壁」とは、配偶者に扶養されているパートタイマーなどの年収が、ある一定の金額を超えた瞬間、税金や社会保険料の負担が新たに発生し、世帯全体の手取り収入がガクンと減ってしまう現象の総称です。

まるで、キャリアアップという階段の途中に、透明なガラスの天井がいくつも設置されているようなもの。主な壁は以下の通りです。

* 103万円の壁(所得税の壁):
これを超えると、あなた自身に所得税がかかり始めます。さらに、あなたのパートナーが受けていた「配偶者控除」という税金の割引がなくなり、パートナーの税金も上がります。まさにダブルパンチです。

* 130万円の壁(社会保険の壁):
これが最強にして最悪の壁です。年収が130万円(企業規模によっては106万円)を超えると、あなたはパートナーの社会保険の「扶養」から外れ、自分自身で国民健康保険や国民年金(または勤務先の厚生年金・健康保険)に加入し、保険料を支払う義務が生じます。
この負担額は、年間で数十万円にも及びます。
結果、年収129万円の時よりも、年収140万円になった時の方が、手取りが少なくなるという、常識では考えられない「働き損」が発生するのです。
一生懸命働いた結果、家計が苦しくなる。

こんなバカげた話があるでしょうか?多くの人がこの壁を越えることを恐れ、自ら労働時間を減らす「就労調整」を行ってしまうのは、当然の帰結と言えるでしょう。

本当の恐怖は「見えない損失」にある

しかし、目先の手取りが減ることなど、このワナの本当の恐ろしさに比べれば些細な問題に過ぎません。
「年収の壁」がもたらす最大の損害は、あなたの未来から奪い去っていく、見えない資産です。

1. キャリア形成の機会損失:
「壁」を意識して働くということは、責任あるポジションや昇進の機会を自ら手放し、補助的なパートタイム労働に留まることを意味します。それは、スキルアップの機会、人脈形成の機会、そして自己実現の機会を、すべてドブに捨てることに等しい行為です。短期的には数万円得するかもしれませんが、長期的には数千万円単位の生涯賃金を失っていることに、多くの人は気づきません。


2. 老後の貧困リスク:
パートナーの扶養に入っている期間(国民年金第3号被保険者)、あなたは将来もらえる老齢厚生年金を一円も積み立てていません。これは、自分の老後の安定を、パートナーの存在という不確定なものに完全に依存させるということです。もし将来、離婚や死別によって一人になった時、あなたを待っているのは、雀の涙ほどの国民年金と、乏しい職歴だけかもしれません。

結論:良かれと思った制度が、個人を弱体化させる

「年収の壁」は、かつての「夫が働き、妻は家庭を守る」という昭和の家族モデルを前提に作られた、古い時代の遺物です。
配偶者の税負担を軽くし、保険料を免除することで、一見すると家庭を「保護」しているように見えます。しかし、その実態は、個人の就労意欲を削ぎ、経済的自立を妨げ、キャリアの可能性を永久に奪い去る**「見えない鎖」**なのです。

そして、この鎖は、結果的に世帯全体の経済力を弱め、社会の変化に対応できない脆弱な家族を生み出す原因ともなっています。
結婚という選択は、あなたが意図せずして、このような巧妙なキャリア破壊のシステムに組み込まれてしまうリスクをはらんでいるのです。
自分の能力を最大限に活かし、経済的に自立した人生を送りたいと願う個人にとって、「結婚しない」という選択は、この不合理なワナから自らを守るための、極めて合理的な防衛策と言えるのではないでしょうか。