私はずっと仕事をしてきました。独身の頃からずっと。米国に本社があるコンサルティング会社では、本社に転勤まで希望していて、出張ではよく行っていたもののやはり米国に居住して仕事をしたいと強く望んでいたのです。あの頃ワーキングビザを取るのは本当に大変だったにもかかわらず、1年ほどかけてようやくビザを手にしました。あのビザを見た時の瞬間は本当に嬉しかった。が、しかし、その頃、実はある出会いがあり、その出会いを取るか、ビザを取るかで悩んだ末、その出会いを取ったのです。それが今の夫との出会い。あんなにビザを熱望していたのにそんなに簡単に諦められるものなんだと自分自身すごく驚いたことを覚えています。だから今の私がここにいる、そう思うとすごく不思議な気がします。
それでも結婚しても仕事を続けていました。それは家計を助けるということよりも自分自身のために。長女が産まれてからは保育園に預け母に助けてもらいながら仕事に行く生活でした。保育園は午後7時を過ぎると1分単位でチャージされるので駅の階段を一本抜かし、二本抜かしで7時ギリギリまでに間に合うようにと毎日頑張っていました。そんなある日、二人目の妊娠がわかったのです。でも二人目だし、別に仕事に支障はないといつも通りの生活を送っていました。仕事を終えたある日、大急ぎで長女を迎えに行き家にたどり着きその日の夕食に買ってきた食料品を冷蔵庫に入れていたところ、お腹にものすごい激痛が走りました。そして大出血。病院へ行きベビーにも私にも異常がないことがわかると家に帰ってもいいと許可が下りました。夫は一言「ベビーがここにいるんだって言ってるんだよ。もう仕事は辞めてゆっくりして。」と。私もちょっと反省しながら仕事を辞めることに決めたのです。それからは長女とたくさん時間が持てて、ママ友も増えて楽しい時間が始まりました。でもでも何か違う。そう思いながらも長女との時間を大切にし無事に次女も産まれました。次女が産まれてからは楽しい反面、何かしないと社会から取り残されてしまうと焦りばかりが大きくなり、たぶん表面では楽しくふるまっていたかもしれないけれど、心の中ではかなり憂鬱になっていました。そしてその頃、夫にシンガポール転勤の話があったのです。渡りに船とはこのことで、私はシンガポール行きを強く勧めました。
その頃の私たちにはシンガポールに知り合いなど一人もいなく、右も左もわからないまま。でも生活していかなければなりません。乳飲み子を抱えどうしようという不安よりもこの子たちを育てていかなくちゃという変な義務感、責任感でどうにかやっていけていたと思います。
やっと引っ越しも終わりその週から夫はインドへ出張。そして娘たちはよりによって二人とも高熱を出した週。看病で疲れ果てているのに眠れず、夜中の2時頃に娘たちの様子を見に行きリビングルームに戻りガラス越しに外を見つめていました。するとなんだかものすごい悲しみに襲われ「どうしよう」と初めて不安になったのです。でも外を見ると遠くの道、オレンジの灯りの下にひっきりなしに車やタクシーが走っている。それをずっと見つめるうちに「皆生きている。皆ここで生活している。私も頑張らなくては。泣いている場合じゃない。」となんだかものすごい力が体の奥から湧き出てきました。基本私はあまり不安になったり心配したりしないのだけれど、この時ばかりは、らしからぬ私でした。でもあの時動いているものを見てすごく勇気づけられたのは紛れもない事実。もし窓から見た景色が動かない木や建物だったら、あのまま泣いて日本に帰っていたかもしれない。
とそんな風に不安を掻き消しシンガポールの生活をエンジョイしようと決めたあの頃。不思議なものでそう思ったら周りにどんどんママ友が出来て公園で毎日のように子供を遊ばせながら、楽しいおしゃべりをして過ごしました。子供たちも幼稚園に入りだいぶ慣れた頃、まてしてもあの”焦り”が湧き上がって来たのです。子供たちの学校のPTAではその頃、学校新聞を日本人コミュニティーに向けて日本語に翻訳する人を募集していたのでそれに応募し、ボランティアで翻訳をやってみたり、娘のクラスでお寿司のデモンストレーションをしてみたり、とあの”焦り”を吹き飛ばそうと色々なことにチェレンジしてみました。習い事もオランダ語、華道、テニスなどできる限りスケジュールを埋めてやってみたものの”焦り”だけは消えませんでした。それは社会に対する焦り、置いてきぼりにされてしまうという焦りだったのだと思います。
私はやっぱり働きたい!そう思ったら行動に移す。まずは新聞の求人欄で仕事を探し面接へ。まだその頃は子供たちも幼稚園児と小学生だったのでフルタイムは無理だと話すとほとんどの会社がそれはできないという返事。シンガポールのいいところは、子供が生まれても夫婦共働きが当たり前。そしてそれができる環境が整っているということに尽きると思います。
そんな日々が続いたある日、今までは外資系ばかりで働いてきたので外資系のみ面接を受けていましたがもしかしたら日系の会社もいいかも、と視点を変えてみたのです。そして派遣会社へ登録し求人を待つ日々。ある日”金融ですがお仕事ありますよ。週2、3回でいいの。面接行ってみない?”と担当の方から電話をもらいました。ちょうど面接が夏の恒例オランダ行きの2日前だったので担当の方が”もし受かった場合はお電話しますね”とおっしゃるので”オランダにいますが大丈夫ですか?”と。ではメールをしますとの答え。そしてオランダに行って2週間後にメールを受け取ったのです。その時の気持ちは本当に嬉しくてあの”焦り”がスーッと引いていった感覚を今でも覚えています。また仕事ができるという喜びは何物にも代えられないありがたいことでした。
そして始まった私の初めての日系企業での仕事。とてもいい上司に恵まれ本当に楽しく仕事ができました。つづく。。。。
それでも結婚しても仕事を続けていました。それは家計を助けるということよりも自分自身のために。長女が産まれてからは保育園に預け母に助けてもらいながら仕事に行く生活でした。保育園は午後7時を過ぎると1分単位でチャージされるので駅の階段を一本抜かし、二本抜かしで7時ギリギリまでに間に合うようにと毎日頑張っていました。そんなある日、二人目の妊娠がわかったのです。でも二人目だし、別に仕事に支障はないといつも通りの生活を送っていました。仕事を終えたある日、大急ぎで長女を迎えに行き家にたどり着きその日の夕食に買ってきた食料品を冷蔵庫に入れていたところ、お腹にものすごい激痛が走りました。そして大出血。病院へ行きベビーにも私にも異常がないことがわかると家に帰ってもいいと許可が下りました。夫は一言「ベビーがここにいるんだって言ってるんだよ。もう仕事は辞めてゆっくりして。」と。私もちょっと反省しながら仕事を辞めることに決めたのです。それからは長女とたくさん時間が持てて、ママ友も増えて楽しい時間が始まりました。でもでも何か違う。そう思いながらも長女との時間を大切にし無事に次女も産まれました。次女が産まれてからは楽しい反面、何かしないと社会から取り残されてしまうと焦りばかりが大きくなり、たぶん表面では楽しくふるまっていたかもしれないけれど、心の中ではかなり憂鬱になっていました。そしてその頃、夫にシンガポール転勤の話があったのです。渡りに船とはこのことで、私はシンガポール行きを強く勧めました。
その頃の私たちにはシンガポールに知り合いなど一人もいなく、右も左もわからないまま。でも生活していかなければなりません。乳飲み子を抱えどうしようという不安よりもこの子たちを育てていかなくちゃという変な義務感、責任感でどうにかやっていけていたと思います。
やっと引っ越しも終わりその週から夫はインドへ出張。そして娘たちはよりによって二人とも高熱を出した週。看病で疲れ果てているのに眠れず、夜中の2時頃に娘たちの様子を見に行きリビングルームに戻りガラス越しに外を見つめていました。するとなんだかものすごい悲しみに襲われ「どうしよう」と初めて不安になったのです。でも外を見ると遠くの道、オレンジの灯りの下にひっきりなしに車やタクシーが走っている。それをずっと見つめるうちに「皆生きている。皆ここで生活している。私も頑張らなくては。泣いている場合じゃない。」となんだかものすごい力が体の奥から湧き出てきました。基本私はあまり不安になったり心配したりしないのだけれど、この時ばかりは、らしからぬ私でした。でもあの時動いているものを見てすごく勇気づけられたのは紛れもない事実。もし窓から見た景色が動かない木や建物だったら、あのまま泣いて日本に帰っていたかもしれない。
とそんな風に不安を掻き消しシンガポールの生活をエンジョイしようと決めたあの頃。不思議なものでそう思ったら周りにどんどんママ友が出来て公園で毎日のように子供を遊ばせながら、楽しいおしゃべりをして過ごしました。子供たちも幼稚園に入りだいぶ慣れた頃、まてしてもあの”焦り”が湧き上がって来たのです。子供たちの学校のPTAではその頃、学校新聞を日本人コミュニティーに向けて日本語に翻訳する人を募集していたのでそれに応募し、ボランティアで翻訳をやってみたり、娘のクラスでお寿司のデモンストレーションをしてみたり、とあの”焦り”を吹き飛ばそうと色々なことにチェレンジしてみました。習い事もオランダ語、華道、テニスなどできる限りスケジュールを埋めてやってみたものの”焦り”だけは消えませんでした。それは社会に対する焦り、置いてきぼりにされてしまうという焦りだったのだと思います。
私はやっぱり働きたい!そう思ったら行動に移す。まずは新聞の求人欄で仕事を探し面接へ。まだその頃は子供たちも幼稚園児と小学生だったのでフルタイムは無理だと話すとほとんどの会社がそれはできないという返事。シンガポールのいいところは、子供が生まれても夫婦共働きが当たり前。そしてそれができる環境が整っているということに尽きると思います。
そんな日々が続いたある日、今までは外資系ばかりで働いてきたので外資系のみ面接を受けていましたがもしかしたら日系の会社もいいかも、と視点を変えてみたのです。そして派遣会社へ登録し求人を待つ日々。ある日”金融ですがお仕事ありますよ。週2、3回でいいの。面接行ってみない?”と担当の方から電話をもらいました。ちょうど面接が夏の恒例オランダ行きの2日前だったので担当の方が”もし受かった場合はお電話しますね”とおっしゃるので”オランダにいますが大丈夫ですか?”と。ではメールをしますとの答え。そしてオランダに行って2週間後にメールを受け取ったのです。その時の気持ちは本当に嬉しくてあの”焦り”がスーッと引いていった感覚を今でも覚えています。また仕事ができるという喜びは何物にも代えられないありがたいことでした。
そして始まった私の初めての日系企業での仕事。とてもいい上司に恵まれ本当に楽しく仕事ができました。つづく。。。。