わざわざ東京から来てくれるBOOWY側に少しでもギャラを払えるようにと本数を増やすために決めたライブでした。

ここでの開催は、「ストリートマガジンDO」というタウン誌の配本に同行して、高知県高岡郡窪川町(現在の四万十町)にあるレコード店「一心堂」に立ち寄った際に、「今度、こういうバンドの四国ツアーを企画しているんですけどこの辺りで協力してくれそうな人はいませんでしょうか?」と相談したことがきっかけになりました。

地元の高校生の村山くんが前座をすることを条件に、当日の機材の搬入搬出やもぎりを手伝ってくれる。ということと、
会場が田舎の体育館のようなところでしたので会場代が4万円とすごく安く、製作費が安価に抑えられるという好条件がそろったので実施できました。

窪川駅から徒歩5分程度の農協の隣にある「窪川 農村環境改善センター」では朝9時からPA,照明の準備を村山くんたちの協力で行いました。
彼らにとって初めての大規模な機材設営に村山くんとメンバーたちのテンションは上がります。
おおよその準備が整っていよいよBOOWYのメンバーの到着を待ちます。
油蝉の鳴き声のする体育館の入り口、付近でたむろっているとZELDAの時と同じようなワゴン車からメンバーとマネージャーの土屋くん、ローディーの鈴木ゾンビくんの総勢6名が降りて来ました。
BOOWYにかぎらずこの当時のライブハウスツアーをしていたバンドは車内に染み付いたラックケースの革と整髪剤の匂いをまとっています。

車から降りてくるメンバーたちは、既に話題沸騰していたスターリン、や戸川純さん、東京ロックシーンで大切にされている感が強かったZELDAとも違って「生々しく東京で頑張っている若者たち」というイメージでした。
暑いのだから当然なんだけど、タンクトップに七分丈のパンツを履いているメンバーはアルバムジャケットとはかなり違いがありました。
まあ、それがかえって「本人たち」が来ているんだなーと思わせるのですが・・。
楽屋に移動しつつ誰かが氷室に近衛十四郎の「月影兵庫」シリーズの再放送の最終回あるよ~と教えて、「そうなんだ!!録画を頼まないとなー」と話していたのを自分も同シリーズのファンだったんでよく覚えています。

車から降りてきたメンバーに向かって挨拶をして楽屋に案内するのですが、
この頃の自分はケータリングという概念がありませんでしたから楽屋にはジュース1本置いてません。
でも、村山くんのお薦めで近くでお薦めの中華料理店「滝」(現在、廃業されてますが元オーナーご夫婦が近くで「滝の子」をされてます。自分はいまも近くを通ることあると寄らせていただいています)にランチに行ってもらいました。
案内は「一心堂」の田辺さんにお願いして、自分たちはゾンビくんと楽器のセッティングです。

会場に戻ってきたBOOWYのメンバーがリハーサルを始めるのですが、ヴォーカルはしばらくはマネージャーの土屋くんが代わりをします。
ある程度、整ったところで氷室に代わってのリハーサルが始まるのですが、ここでロビーの村山くんたちがざわつき始めます。
ARBの「東京シティは風だらけ」を演奏していたのです。
これはたぶん待機しているスタッフたちだけへのメンバーからのサービスだったと思うのですが、(ブルース・スプリングスティーンの「WAR」みたいなものかな?)
後年1990年代々木体育館でのARBの解散ツアーのステージに氷室京介がゲストとして歌ったのが同曲だったのですが、この日の光景を知っている自分としてはどんな気持ちで歌ったんだろうか?と感慨深いものがありました。

リハーサルを終わらせてから土屋くんから「岡本くん相談なんだけど」と、布袋くんの使うギターアンプ(希望は持参しているフェンダー ツインリバーブ)をステレオにしたいからどこかで借りてきてもらえないか?と言われる。
ここは高知市内からも中村市(現四万十市)からも片道1時間30分以上かかるのでそれは無理な話。
ここでも村山くんが相当、無理をしてくれて興津方面の農機具置き場でバンドの練習をしていた友人宅に電話を入れてくれてアンプを貸してもらう段取りをしてくれた。
急遽、自分が村山くんのバンドメンバー、ケンジくんの案内で軽トラで借りにゆく。

借りて来たアンプはツインリバーブではなかったけど、それでもセッティングして再びリハーサルを行う。
土屋くんが自分の隣に来て云う「全然違う音になったでしょ。」

ライブは170人くらいの動員だったのですが、当時のBOOWYの東京での最大キャパでのライブが渋谷LIVE INで400人くらいだったことからすると当時人口17000人程度の窪川で・・・しかも幾つかの中学、高校からは「ロックコンサートへ行ったら停学、もしくは退学」と通達される時代にあって、これは画期的な動員数だったと思う。
なので前説でステージに上がった土屋くんが「本当に0の段階から今日まで頑張ってくれた地元のロックバンド、ダンススタンスに拍手をお願いします!」と幕が上がると充分な盛り上がりで客席の友人たちも応えてくれた。
ダンススタンスはスターリンのコピーをやってました(笑)

BOOWYはこの頃、オープニングは未発表曲「IN MY HEAD」から始まるのが定番だったようですが、ここ窪川でもそうでした。
オーケストラ風のシンフォニックのSEが力強く流れる中、メンバーが登場していきなり烈しい演奏が始まります、
このライブ映像はyoutubeなどにブートがupされているので視たことある方もいると思いますが、照明が学園祭レベルでしょぼいです。
採算と、本来がコンサートなどのために設計されていない体育館ゆえ会場には照明用の調整卓があるわけでもなく、照明を吊るためのバトンも少なく、ディンパックという簡易な調整卓を持ち込んでの演出ゆえ残念な状態だったのだ。
それでも自分としては思ってもみなかった田舎街での熱烈な歓迎ぶりにBOOWY側も力の入ったライブでした。

この頃のBOOWYのライブスケジュール等を掲載してくれていた雑誌は「アリーナ37」くらいで、BOOWYが売れてからも「アリーナ37」に協力的だったのはこの頃の恩返しだったと思う。

最期に、この夜のことで半ば伝説になっていることを目撃者として書いておきます。
ライブが終わって、安く泊めてくれた「椿旅館」の浴衣を着た氷室、恒松とメンバー、前座のダンススタンスと国道沿いにあった「東京ラーメン」での質素な打ち上げを終わらせて窪川町の夜の商店街を歩いていると酔っぱらった土木作業員1名が氷室に絡んできた。
「兄ちゃん、カッコいいな」
はじめは「いやいや」といなしていた氷室だったんですが、いきなり相手が殴り掛かってきて、それを氷室が抑え込んで馬乗りになりました。
相手は「いや。悪かった・・俺の負けだよ」と言いながらも突然、下から唾を吐きかけてきて再び氷室が怒って制圧したのを布袋くんとゾンビが止めてその場は収まった。

この夜は、自分は節約のために村山くんの自宅の離れに泊めてもらっていたのだけど、
100clubのスタッフをしてくれていた岡田くんは「椿旅館」に一緒に泊まっていて翌朝、自分に「夕べ、宿に戻ったらあの作業員も同じ宿に泊まっていて、気にしたヴォーカルが朝まであいつの話し相手してやってた」と聞いた。

当時、曳家の現場作業が嫌できらびやかなファッションやロックにひきつけられていた自分としては、殴られた彼の気持ちも判るんだけど・・そうかと云って突然、絡んでくるのはあの時代とはいえ、かなり良くないなー。


このブログにこの日の夜の打ち上げ後の記念写真が1枚あるんで掲載しようか?と悩みましが見送りました。
繰り返しますが、このブログは自分のボケ防止のためだけに書いてますので、次回のupがいつ頃になるとか?ご期待には応えられませんのできままにお待ちください。
早く88年ブルーハーツ初四国ツアー編も書きたいんですけど・・