今も昔も、高知県では「よさこい祭り」は市民にとっても観光面でも最大のイベントです。
当時、高知市内にはコンサートに使えるホールはRKCホールとこちらの高知県民文化ホール キャパ1504席のオレンジホール、キャパ500席のグリーンホールしかありませんでした。
RKCホールの方は高知放送(テレビ、ラジオ)が経営するホールでしたので先の戸川純さんの思い出で書いたようにニュースのO・A中は音出しが出来ないなど制約も多いため、ほとんどの催事は高知県民文化ホールに集中していました。
そんなわけで稼働率(ほぼ)100%と云われていたホールの空き日を押さえることは至難の業だったのですが・・・
よさこい祭りの期間中だけはほとんどの主宰者が敬遠するため押さえることが出来たのが、8月9日でした。
このライブだけは、BOOWYを高知へ呼びたい。と切望して、いきなりホットスタッフプロモーションに電話して(当時、東京でのライブのイベンターをされていたそうです)、四国ツアー実現を切り開いた磯くんの主宰です。
磯くんは、自分が赤字は負担するつもりだったのと、アマチュアバンドをやっていてチケットを売ることがいかに苦労するか?よく判っていたので、(この頃はアマチュアバンドのチケットは500円が一般的でした)なので、この日だけはチケットは全席自由¥1800-でした。
で、自分たち100CLUBも全くのボランティア(笑)
この頃は「ライブハウスの無い高知県に東京で視るようなバンドを呼びたい!」と若者ならではの馬鹿な熱情に浮かされていたし、実際、日中は曳家して働いて、自宅で暮らしですから食うには困らないんで親父に甘えて好きなことさせてもらっていました。
まあ、時代もね。バブルの好景気もありました。
自由席、手売り。の悪いところは・・当日蓋を開けるまで何人入るか?はっきりしないことなんですけど。
この日は、なんと!!満席!チケットを売り過ぎていたことが発覚!!
直前まで市内のプライガイドと手売りの集計をしても220枚程度だったのが最期に大きく動いたのは?なんでなんだろう?
今なら、snsとかで窪川町での熱狂ぶりが伝わる。というのもあるでしょうが、42年前です。
当時、自分なりの分析は「街中のよさこい祭りと高校野球観戦」に参加しない層が集まってくれたのもあるかと思います。
しかし高松1箇所、高知で3か所も行った四国ツアーの最終日ということもあり、どうやら各公演を視た何人かが、もう1度視たい!と追いかけて来てくれた数字が加算されたのもあったようです。
こんなエピソードがあります。
帯同してくれた堀谷くんに聞いたのですが、土佐清水市の旅館を出て高知市内に向かう途中の七子峠の頂上で4人の高校生?がチャリンコで待っていて堀谷くんのオープンカーとBOOWYの乗るワゴン車が通ると猛全と坂道を追いかけてきて「今夜のライブ行きます!」と叫んでくれたそうです。
結局、当日券の発売は中止。遅れて来たお客さん3名くらいには2000円返金して帰ってもらうことになりました。
始まる前から会場は興奮と熱気の嵐です。
この時のビデオはその後、BOOWYが東芝IMIと契約した際に各地の営業所に資料映像として配布されましたから、そこからのコピー等で視られた方もいる。と思いますが、よさこい祭りの前夜祭が至近距離で行われている高知の熱気が高知県民文化ホール(グリーン)にも燃え移ったような感覚は、到底、映像では伝わりません。
自分は楽屋にいる土屋くんに、帰ってもらった観客のためにも急遽、追加公演に対応してもらえないか?を相談に行きました。
着替えていると悪いと思って、ドアの外から大声でロビーの状況を伝えたのですが、ドアが開いて氷室が「おめぇさあ。人に話する時は目を見て話せよ!」とすごんだ直後に「冗談 冗談だよ。(笑)」と笑いつつ。
「やっても良いけど、きちんとしたPAを準備してくれることだよな」と言われました。
こうして自分は高知ライブの前半はロビーの電話の前で追加公演の段取りに奔走します。
BOOWY、高知グリーンホール伝説はこうして幕が上がる前から予想もしていなかったテンションでした。
ライブは、今夜も「IN MY HEAD」からスタートです。
この日のライブだけは、窪川農村環境改善センターのPA,照明をお願いした野市電機(現Nes)の藤原社長(藤原の大将と呼んでました。本当に気の良い田舎の音響機材好きのオヤジさんでした)のご厚意で、フェンダーのツインリバーブをわざわざ購入してくれて音響と共に持参してくれましたので。
四国ツアーで唯一の布袋くんの希望するアンプでのステレオライブが実現しました。
PAはメインスピーカーはJBLの60(hf260709)が片側4発+ツイーター2発づつ。というセットでした。
80年代初期の音響機材は拡張するシーンのニーズに合わせてより爆音が求められる時代となりはじめてましたが、まだ高知にはそうしたスピーカーやミキサーの導入例はなく、ややクラシカルできれいな音の出るスピーカーでした。
どちらかと云うとJ-WALKや久保田利伸とかのライブ向けのスピーカーと云えばイメージしやすいでしょうか?
当時、知識とお金があれば隣の愛媛県のPA会社 松山ステージサービスさんが所有されていたデルタマーチンのスピーカーで主宰すればより良かっただろうと悔やみます。
※
デルタマーチンは東京の(株)明徳堂さんが大量に所有されていてARBやラフィンノーズのツアーで採用されていたのですが、機材の入れ換えの際に自分の紹介で徳島のジェスターコーポレーションさんが譲り受けました。
それを80年代の骨太の音を設計したかったミッシェルガンエレファントチームが、わざわざ中国・四国ツアーでジェスター大野さんに依頼されていたのは勝手に嬉しい思い出です(笑)
観客暴動!
自分はかつてこんなにもめちゃくちゃなライブを診たことがありません。
「警備の静止を振り切って客席先方に集結してこぶしを振り上げることがバンドへの最大のリスペクトだ」という時代背景が大きかったとは思いますが、それでも観客に近い年齢の自分たちが主宰しているせいで「客になめられていた」我々の警備はあっ云う間に瓦解してしまいます。
その頃、ロビーの電話で明日の追加公演会場として、スターリンで使わせてもらったキャラバンサライの確保はなんとかオーナーの許諾は獲り付けるのですが、PAの方が、明日からの「よさこい祭り」の地方車(山車)に搭載するためにどんな伝手を使っても手配出来ません。
結局、追加公演を諦めてアンコールで「今夜、盛り上がりすぎたからこのまま東京に帰れないってことで明日の追加公演決まったぜ!」と発表してもらうことも無くなりました。
そして会場内に戻ると、そこは見たこともないような人の津波が起きています。
会館側からは、「観客を客席に戻せ!さもなくば電源を切る」と激しく詰め寄られます。
PA席で野市電機のオペレーターに指示を出している土屋くんに「MCで観客に席に戻るよう言って欲しい」と頼むのですが、初めは「僕たちは客をノセるのが仕事で警備はそっちの仕事でしょ」と断られるのですが、とうとう観客が60人くらいステージの上にも上がるようなって流石にこのままではやばい。となってライブを中断してもらいます。
そこで主宰の磯くんと、このツアーまで手伝いに来てくれていた岡田くんが順次、ステージに立ちます。
磯くん
「僕もみんなと同じようにノリたいです。そう思ってBOOWYのみなさんに来てもらいました。しかしこのホールを借りている以上、このホールのルールに従わなくてはなりません。
席に戻ってもらわないと中止になります」
ちなみに、このホールでは翌年6月の尾崎豊もライブが中断されたこともあります。
自分はその日たまたまロンドンのハードコアパンクバンド G・B・Hのメンバーとの夕食のためにワシントンホテルロビーにいたところまだライブをやっているだろう時間に尾崎豊が一人でロビーに出てきたのを憶えていて、翌日、会館の技術職員さんに聞いたら「客を煽りすぎて収拾がつかなくなったんで電源を切った。その後、客電を点けて観客にも帰ってもらった」とのことでした。
後年、この夜にクラクションのメンバーとしてドラムを担当されていた吉浦さんと別の仕事でグリードホールを訪れた際に、吉浦さんがステージの床にこの夜のマイクをぶつけた跡を探していたのが印象に遺りました。
とにかくおそらくですが、今も昔も圧倒的なカリスマ力をもって観客を魅了するアーティストは何をもっても代えがたく、それゆえ周囲も「素晴らしいライブさえしてくれていれば、普段の人間性は相当、酷くとも許容してしまう」状況が人気アーティストには起こりやすいです。
バンド内に心を赦せる叱ってくれるメンバーがいるか?絶対的に信頼できるマネージャーがいるか?で、そのバンドの人生は変わります。
自分の曳家修行の日々は親方である父親は、自分にはほとんど構わず、先遣りをしていた土居のおんちゃんに常に付けられていました。あまりにも怒鳴られ続ける毎日でした。
あるお施主さんはその光景を視て、父親に「あの2人は親子か?他人の子どもにあそこまで厳しく言えないですよね」と云うと親父は苦笑いして「あれは自分の息子です」と答えてました。
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