とうとう、ルースターズが四国初上陸となった。

当時の高知において「めんたいロック」御三家は、ARB、THE MODS、そしてルースターズ。という位置付けでした。

正直、シーナ&ロケッツもここに入れても良いと思うんですけど、当時は所属するアルファレコードの戦略なのか?プラスチックスなどテクノバンドのカテゴリーでPRされてました(謎)。

ともかく、ARBは高知では「全国で初めてSOLD OUTとなった」と石橋凌さんがインタビューで何度も云ったほど抜群の人気でしたし、THE MODSも「ファイティング80s」のレギュラーバンドとして早々にオレンジホール(高知県民文化ホール(大)キャパ1504席)でコンサートを実施される人気ぶりでした。

最期に未だ見ぬ、めんたいバンドの伝説としてルースターズが遺っていたのです。

そんなわけですから、100CLUBとしても、これまでのライブハウスツアーを行っていたスターリン、ZELDA,BOOWY、町田町蔵などと違って簡単には電話し辛い「メジャー」なバンドというハードルがありました。

しかし、突然、ルースターズ側との接点が出来ます。

連続してコンサートを主宰したことで「チケットの手売り」はかなり苦しくなっていて付き合ってもらう仲間たちからも「連続してだと売れませんよ」と言われてました。

自分自身もそうでしたが、もう手売りに疲れてしばらくはコンサートの開催を停めよう。と思っていました。
そんな時に時々、夕食に行かせていただいていた居酒屋のマスターがレゲエが好きで「なんかレゲエバンドのコンサートとか出来ないの?」と話になって、「宝島」で見ていた「PJ&クールラニングス」を招聘することが決まりました。
BOOWY高知県民と同様で実質の主宰者は自分ではなく、ほぼ制作に廻れば良かったのでマチゾーの次のコンサートとして、レゲエのコンサートを選びました。

そのPJ&クールラニングスが所属していた事務所が、SMASH(今では、FUJI ROCK fesの主宰で有名です)でした。
電話した時に担当ですと、対応して下さったのが石飛さんでした(FUJI ROCK fesのドキュメント番組とか見ると必ず出てきます!)
いきなり石飛さんに「四国の100CLUB!!電話かかってくるかな?」と思ってたよ。」と言われて自分たちの小さな活動を知ってくださっている東京のプロダクション関係者がいることに、24歳の若僧は魂が震えました。

PJの打ち合わせを進める中で、他にもご紹介いただけるバンドがありましたらよろしくお願いいたします。と話すと!!なんと!ルースターズの名前が出てきたのです!!
当時、ルースターズは、ゴダイゴが所属するジェニカミュージックに在籍していたのですが、石飛さんとは、一緒に上京した仲だったのです。
石飛さんが言ってくれなければ当時の人気絶頂のゴダイゴの事務所に電話する。なんて無謀なこと出来なかったと思います。

そんなこんなで、ルースターズの初四国、高知ツアーは1985年2月14日高知県民文化ホール(グリーン)、翌日15日は土佐清水文化会館(BOOWYの土佐清水市公演を主宰した地元ブティックが再び実施)となりました。

セットリストは、「Φ(PHY)」「GOOD DREMES」からを中心としたものでしたので、不良なロックを期待して集まった高知のロックキッズは「なんじゃあこりゃ~」状態でした。
後から聞くと、当時のディレクター柏木省三さんから「サイケデリックに路線変更!」となった時期だったために、こうなったのそうなんですが、
しかしそうせざる得ない事情として、大江慎也の鬱病やメンバーチェンジによる演奏力のばらつきから、池畑潤二、井上富雄在籍時の強力なビートに迫ることが出来ないために、サイケデリック路線に活路を見出そうとしたのではないかな?と思います。

それでも、「Φ(PHY)」は日本のロック史上に燦然と輝く名盤と思います。
1曲目の「ヴィーナス」をはじめとする楽曲の良さ、「COME ON」の通好みのアレンジなど才能のきらめきが迸る傑作です。
渋谷陽一編集長とお逢いした際に、「ルースターズ良いよね。日本のバニーズだよ」と言われていたのを憶えています。

さて、ライブですが。
「ヴィーナス」で始まるのですが、この照明プランだけはマネージャーが入念に打ち合わせした成果で「まるで専属オペレーターが付いて来た行っている」ように見える演出でした。
スタンドに付けたパーライトを孔雀の羽のように拡げてイントロに合わせてスモークマシーンの中から輝かせる場面は「ヴィーナス」の歌詞とぴったりでした。
また、当時の野市電機にはスモークマシンはロスコーマシンしか無くて、光の筋を均一にきれいに載せるデュフェージョンマシンとは違って煙が濃かったのも雲の間にメンバーが立っているようで効果を上げていました。

そんな素晴らしいオープニングから始まったのライブは、この東京への帰路での神戸チキンジョージ(だったと思う)で大江慎也が脱退をする直前の最期に撮影されていた映像ということで、
後年、ルースターズのコンプリートBOXが制作されることになった時に、当時のkeyでアルバムのプロデューサーでもあった安藤広一さんから電話かかってきて「岡本、あのビデオの権利を俺にくれ。正式にリリースしたいから」と依頼されてマスターテープを渡しました。
それゆえ、今、みなさんはこの映像を海賊版ではなく視ることができるのですが、以下はyoutubeにupされたこの映像に関するコメントに自分がかつて返信した内容です。

「こんばんわ。 このコンサートを主宰した100CLUB(後にCAT KIDS CLUB)の岡本です。
 これはビデオでの映像では判らなくなってしまっていますが、PAは専属オペレーターで総合舞台(後にサウンドメディア)の瀬山昇氏でした。
瀬山さんは、ピザの都合で来日出来なかったチャカ・カーンの武道館公演のチーフオペを担当しましたし。 後輩のBOOWYが売れてきてから、マイケルが帰国している時などは代打でBOOWY大阪城ホールなどを担当されてました。

 PAは下手ではありません。録音の問題です。 瀬山さんは96年ごろに癌で亡くなられますが、自分の中では日本のロックシーンの黎明期を切り開いたパイオニアだと思っています。

セットは、この当時は高知県にはライブハウスが存在しなかっため、本来ならホールライブで無かったものを無理にやっているからです。 ただ、照明も、やはり当時のカメラでは充分に撮れていない部分は大きいと思います。

 そもそもこの映像は、自分が老後の愉しみのために撮影させてもらっていたものを、コンプリートBOXを発売する際に、安藤さんから依頼されて提供したものです。 もちろんファンの方は自由に意見を言われるのはOKだと思います。
 しかし、限られた条件の中で、大好きなバンドのライブを仲間と見たいという熱を持って開催していた側の本来、商品化されて一目に触れる予定の無かったものですのでご理解ください。

ちなみに、前年84年のBOOWY四国ツアーの2本のライブ映像も自分が撮影していたから残っています。
 権利問題がありますので、ブートで見ることしか出来ないでしょうが。 ライブは生で見るものです。 ここでは大音量でまた、ビデオ等での再現性がもっとも劣る重低音は聴けないんですよね。」

このライブ以前のラフォーレミュージアムで行われた「パラノイアックライブ」も含めて、大江さんの体調の悪さを指摘される方は多いですが、この頃のタコ踊りのような奇妙なダンスは間違いなくトーキングヘッズのデビット・バーンに影響された大江さんなりの模倣です。

今年2026年のFUJI ROCKで60代後半になったオリジナルメンバーが久々に揃って初期の名曲「Dan Dan」や「CMC」を俺たちはこれなんだよ。と演奏している姿は胸熱でした。
そしてかつて自分の憧れだったルースターズに抱かれるようにヒロトが「ロージー」を最高に嬉しそうに歌っているのもこちらまで嬉しくなりました。

エピローグ
個人的な思い出:自分の結婚式のお色直しでの再入場時は「ヴィーナス」を使いました。
東日本大震災以降、上京してから堅田さんと渋谷クアトロでの「ロックンロールジプシーズ」のライブ行きました。
数日前に池畑さんに「NEON BOY」「LADY COOL」を池畑さんverで聴きたい。と言っておいたんですが、「人が録音したものをまた自分が演奏するのはやり辛いんだよな」と言われてましたけど。
当日は演奏してくれてました。リクエストに応えてくれたのか?いつもやっているのか?は判らないですけど、嬉しかったです。

追記
アルバム「FOUR PIECES」と同ツアーに参加された三原重夫さんが、肺がんのために亡くならそうです。
自分と同じ66歳。三原さんとは同ツアーと、ARBの90年代々木第一体育館での解散ライブでロビーで楽屋打ち上げに入るタイミングに困っていた時に声かけてもらって一緒に入っていたくらいなんですけど。
池畑さんとは違うけど、ソリッドなルースターズが帰ってきた!と感嘆するライブを見せてもらってここからどうまた変わってゆくんだろう?とワクワクしていたんですけど、呆気なく解散してしまってすごく残念でした。
ご冥福をお祈りいたします。