戸川さんは、もっともっとシンガーとして評価されるべきだった方と思います。
ゲルニカ時代の和製ニナ・ハーゲンを彷彿とさせるトリッキーかつ声域の拡さ、変幻自在な表現を含めてたいへん魅力的な方です。
そんな戸川さんの初めてのホールツアー初日を1984年の高知でお迎えさせていただけたことを今でも感謝しています。

ただ、これもまた前回のスターリンのライブ同様に自分たちも含めて全てのスタッフの未成熟さゆえ、バックステージでは実に不手際が連続していました。
ただ、これは時代なのかなー。

まず金銭面の責任は徳島の岡地さんが全てを負ってくださる。ということだったのですが、自分としても「赤字になれば岡地さんに出して貰えばよい」とは思えなくて、そこから逆算して会場の規模(キャパシティ)を決めました。
RKCホール(700席)。

スケジュールを管理したPCM江口さん(S-KENのベーシスト)からは普通にワープロで作成して、それを普通紙にコピーしたチケットの版下が送られてきたんですが。
当時は、まだまだチケットはプレイガイドの窓口に並べられる時代でしたので、自分は勝手に、戸川純さんの写真を入れたものを作成してました。
またチラシ(今はフライヤーと呼びますよね)も、アーティストとしての戸川純さんのことをゲルニカ時代から解説した、どちらかと云えば映画のチラシに近いものをこれまた勝手に作りました。
今ならインターネットによって地方との情報格差も無くっていますので、プロダクション側はイメージの統一化を測ってこうしたローカルデザインは赦されないでしょう。

ただ、当時、戸川純さんは既に「宝島」誌面などでは圧倒的な人気をもつ「ニュースター」だったのですが、一般的にはまだまだ「新人芸能人」扱いでした。
これらを補完して、アーティスト戸川純を高知県の普通の音楽を聴いている層にも伝えたかったのです。

ライブの前日になって、「ギターアンプが1台積み込み出来なかったんで、現地でレンタルして欲しい」という連絡が入ります。
アンプも楽器の一部ですからミュージシャンが自分の使うアンプを持参しないというのもどうなのか?と思いますが、とにかく楽器が無くてはライブ出来ませんのでレンタル楽器をされているスタジオに電話入れてゆきます。
スタジオ側は「芸能人」利用だからと足元を視て高めの金額を出してきます。
まあ、自分が不慣れでなめられていたのもあると思います。

戸川純さんを含むメンバーを高知空港に迎えに行く車中では、あまりの天気の良さとプレッシャーに押しつぶされそうで、このまま室戸岬までドライブに行って、明日帰ってこようかな?と思ったことを40年以上経った今もはっきりと憶えています。

どやどやとRKCホールにメンバーが入ります。
メンバーが客席中央の通路にさしかかった時に、現地照明として入ってくださっていた「四国舞台テレビ照明」のスタッフから「すみません!!どなたか、照明スタッフの方いらっしゃいませんか?」と声がかかりました。
すると戸川さん本人が「はーい。わたしです!」云って、と打ち合わせが始まりました。

後に商品化されたビデオは、当時のカメラのスペックもあって相当、明るく照らされていましたが(映像では再現されてません)。通常のツアー先では消耗品であるパーライトの使用には採算面から「少ないライトの数で如何に効果的な世界観を創出するか?は重要なことでした。
※後年、たいへん仲よくさせていただきました鈴木博史LIGHT WAVE(PERSONZ、ルースターズ、シャ乱Q、FUJI ROCK FESなど)と好きな照明プランを話した時に「イギリスのバウハウスのステージのようなのが良いですよね」と言われてました。
88年のルースターズの解散ツアーの照明は、バウハウスぽいものでした。

戸川さんがディレクションした。と云ってもライブ中はステージに立っているわけですから、「照明」は曲に合わせて劇的に変化する。というものではありませんでしたが。
今まさに注目されて勢いついている等身大の戸川純のステージを視れる。という魅力がありました。

リハーサル終わってから、アルファレコードの女性ディレクター?から「すみません。純ちゃんがステージ衣装で着る予定の黒のキャミソールを持ってきてないって云うんで、今から買って来てくれませんか?」と言われました。
後ろから戸川さんが「白のキャミソール持って来ているからそれを染めれば良いよ」と云うのですが、おそらく間に合わない?
急遽、お手伝いスタッフが買い出しに走りました。
「岡本さんとこのスタッフ、なかなかセンス良いですね。助かりました」
このキャミはこの後のツアーでも何度か着用されたようです。

チケットは¥2300-自由席だったと思うのですが、幸い500枚ほど売れていて赤字は免れました。
自由席ゆえ早くから詰めかけてくれたファンがEV周辺に集まって、会館側から「早く開場して欲しい」と指導が入りました。
しかし、RKCホールは、RKC高知放送会館の館内にある為、夕刻のニュース生放送中は音漏れがでるためリハーサルを中止せざるえません。
そのため、リハーサル時間は限られていて早く開場することは出来ませんでした。
やむを得ず「ロビー開場」をするのですが、不満を口にする観客たちに落ち着いて貰えるように、自分はロビーに出てゆき「今日の主催者です。高知県に住んでいても東京と時差のないライブが視れたらな。とこうしたコンサートの主宰を始めました。自分も見ての通りまだ若くて、いろんな失敗してますけど。ここでトラブルが起きたら、活動を続けられません。もう少しだけ協力お願いします」
全く予期してないことでしたが、ロビーから拍手をいただいて恥ずかしく照れくさく会場内に戻りました。

本番前の楽屋に戻るとロビーで待機してくださっているファンの様子をメンバー、スタッフに伝えました。
開場OKになりましたら、出来る限り早く入場してもらう為に自分もチケットもぎりをしてきます。と伝えると戸川さんが「あたしも行くよ」と言ってくれました。
それじゃあ、片桐はいりさんか?シンディ・ローパーじゃないか。
まっ戸川さんが、もぎりに出てくることは無くて、
楽屋でお弁当食べていただいて待機していただきました。

ライブは、TOTOの協賛をもらっていたのかと思いますが、「お尻だって洗って欲しい」のCMが16mmフィルムで流されてから始まりました。
セットリストは現在も視ることのできるビデオと同じです。
黄色の帽子の通学小学低学年スタイル、黒のキャミソール、最期の「カノン」での蜻蛉の羽を着けての歌唱。
「蟲の女」を知ると、その後の人生で「カノン」が聴こえてくると「蟲の女」のカラオケとしか思えなくなりました。

今、振り返るともちろん当時は存在しなかったのですが、もっと良い音響、照明機材で演出されるべきライブだったなーと思います。そう思うのは、きっと戸川純さんのライブが演劇性も含まれていたからなんだろうな。

後日聞いたんですが、四国に君臨する最高のイベンターのDUKEの宮垣社長がこのライブの動員数の報告をうけて「今どき、ちらしの配布だけでそんなにも動員出来るなんて、凄いな」と評価してくださっていたそうです。
後年お逢いした際に当時のことを話させていただいたのですが「闘い辛い相手が出てきたな。という印象だったよ」と言ってくださいました。
自分たちは、ゲリラのようなもので大きく仕掛けることは出来ませんが口コミや学校のお昼の放送を利用させてもらったりして「新しい音」を秘かに拡げていたのです。

エピローグ
その後、PCMの江口さんはジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)とキース・レヴィンが決裂してレコーディングが終了していたものの発売されなかったP・I・L「コマーシャルゾーン」のブートを輸入して販売することになって、自分もそれを30枚くらい仕入れて100clubで販売しました。
このアルバムの未開封の1枚を98年ころまでは自宅に持っていたんですけど、元ミュートビート、当時ARBに参加されていた内藤幸也さんに話したら「ぜひぜひ譲ってくれ」と言われて、もうレコードプレーヤーも持ってなかったんで買いとりしていただきました。